静寂の裏庭にて。(エルンスト)
午前の講義が終わると同時に、教室を抜け出した。人の視線が集まる場所は疲れる。自分が望む以上に人は王子の側近を“見よう”としてくるからだ。
裏庭。ここは、わずかに空が広く、風がよく通る。人目がないこの場所は、かつて王子が秘密の読書場所に選んでいた場所でもある。今は誰も使っていないが、俺にとって好ましい“退避場所”になっていた。
芝生の上に足を止め、深く息を吸う。かすかに草の香り。涼しげな風。いずれも静謐で、何より無言だ。理想的だった。
だが──その静けさは、すぐに破られる。
細かな足音。近づいてくる気配があった。
「誰だっ」
つい、咄嗟に声を荒げてしまったのは自分でも不本意だった。人の気配を感じない場に気配が入ってくると、警戒が先に立ってしまう。
振り返ると、栗色の髪を編み込んだ少女が立っていた。
ああ、見覚えがある。今朝、ラリッサ嬢に声をかけられていた子爵令嬢。地味な制服の着こなし、控えめな態度。だが、その所作は一分の隙もなく、意図的に目立たぬよう仕立て上げられていた。
──あれは偶然ではないな。
少女──リアーナ・メイフィルド嬢は、驚いたように立ち止まり、すぐに頭を下げた。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
静かな声。だが、不自然なほど整っている。丁寧に場の空気を読んでいる⋯⋯というより、空気そのものになろうとしている。
──おそらく、彼女は周囲に関わるつもりがないのだろう。それなら、なぜラリッサの目に留まった?
「⋯⋯待て」
自分でも、なぜ声をかけたのかわからなかった。ただ、気になった。何かが引っかかった。
この令嬢は、あのラリッサに興味を持たれるような目立ち方はしていなかったはずだ。なのに。
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝ラリッサ嬢と話していただろう」
彼女は目を瞬かせ、少し戸惑ったように頷いた。
「はい。少しだけ。ご挨拶をいただいただけです」
──やはり。
あのラリッサ嬢が、単なる“挨拶”で引き下がるとは思えない。
令嬢たちの世界には、外からでは見えない“力関係”がある。言葉の裏に何を含ませたかまでは、第三者には分からない。
けれど、彼女がただ“ラリッサの気まぐれに巻き込まれた”ことは確かだ。
だから、忠告した。
「君は、あれに取り込まれるな。忠告しておこう」
それは警告ではなかった。ただの事実の提示でもない。どこかに、微かな“情”が混じってしまった自覚があった。
何をしているのだ、自分は。
今までも、ラリッサ嬢に巻き込まれた者は数多くいた。それを逐一気にしていたわけではない。
だが、彼女の空気のような存在感──目立たぬために、自分を研ぎ澄ませている姿勢が、どこか自分に似ていると思ってしまった。
──余計な感情だ。
彼女は、俺の視界から逃げたつもりの芝生の端に座り込み、包みを取り出して静かに昼食を広げた。
その様子を横目で眺める。まるで気配を殺すように、静かに、誰の目にもつかないように食事をしている。
本当に、目立ちたくないのだろう。
そして、突然。
彼女の視線が、垣根の裏へ向いた。草が伸び放題の場所。人目につかない裏側。
まるで魅入られたように、その草を凝視している。
──何故草なんかを見ている? まさか、草を⋯⋯抜こうとしているのか?
そんな令嬢がいるはずがない。そう思ったが、彼女の手は、ほんの僅かに動いた。指先が草に触れそうになる⋯⋯が、寸前で止まった。
彼女がこちらを一瞬見た。気づかれたかと一瞬だけ目が合う。
その顔に浮かんだのは、「しまった」という表情だった。
そして彼女は、草を抜くのを諦め、静かに食事を片付け、こちらに何の言葉もかけず去っていった。
──面白い。
そう思ってしまった自分に驚いた。人に対してそんな感情を抱いたのはいつ以来だろうか。
彼女は、たぶん気づいていない。彼女が静かに生きようとすればするほど、目立ってしまうということに。
周囲の誰よりも「関わりたくない」と強く思っている者にほど、皮肉にも人は引き寄せられる。
──リアーナ・メイフィルド。
王子の側近としての義務の中で、俺はまた、余計な興味を抱いてしまったのかもしれない。
裏庭。ここは、わずかに空が広く、風がよく通る。人目がないこの場所は、かつて王子が秘密の読書場所に選んでいた場所でもある。今は誰も使っていないが、俺にとって好ましい“退避場所”になっていた。
芝生の上に足を止め、深く息を吸う。かすかに草の香り。涼しげな風。いずれも静謐で、何より無言だ。理想的だった。
だが──その静けさは、すぐに破られる。
細かな足音。近づいてくる気配があった。
「誰だっ」
つい、咄嗟に声を荒げてしまったのは自分でも不本意だった。人の気配を感じない場に気配が入ってくると、警戒が先に立ってしまう。
振り返ると、栗色の髪を編み込んだ少女が立っていた。
ああ、見覚えがある。今朝、ラリッサ嬢に声をかけられていた子爵令嬢。地味な制服の着こなし、控えめな態度。だが、その所作は一分の隙もなく、意図的に目立たぬよう仕立て上げられていた。
──あれは偶然ではないな。
少女──リアーナ・メイフィルド嬢は、驚いたように立ち止まり、すぐに頭を下げた。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
静かな声。だが、不自然なほど整っている。丁寧に場の空気を読んでいる⋯⋯というより、空気そのものになろうとしている。
──おそらく、彼女は周囲に関わるつもりがないのだろう。それなら、なぜラリッサの目に留まった?
「⋯⋯待て」
自分でも、なぜ声をかけたのかわからなかった。ただ、気になった。何かが引っかかった。
この令嬢は、あのラリッサに興味を持たれるような目立ち方はしていなかったはずだ。なのに。
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝ラリッサ嬢と話していただろう」
彼女は目を瞬かせ、少し戸惑ったように頷いた。
「はい。少しだけ。ご挨拶をいただいただけです」
──やはり。
あのラリッサ嬢が、単なる“挨拶”で引き下がるとは思えない。
令嬢たちの世界には、外からでは見えない“力関係”がある。言葉の裏に何を含ませたかまでは、第三者には分からない。
けれど、彼女がただ“ラリッサの気まぐれに巻き込まれた”ことは確かだ。
だから、忠告した。
「君は、あれに取り込まれるな。忠告しておこう」
それは警告ではなかった。ただの事実の提示でもない。どこかに、微かな“情”が混じってしまった自覚があった。
何をしているのだ、自分は。
今までも、ラリッサ嬢に巻き込まれた者は数多くいた。それを逐一気にしていたわけではない。
だが、彼女の空気のような存在感──目立たぬために、自分を研ぎ澄ませている姿勢が、どこか自分に似ていると思ってしまった。
──余計な感情だ。
彼女は、俺の視界から逃げたつもりの芝生の端に座り込み、包みを取り出して静かに昼食を広げた。
その様子を横目で眺める。まるで気配を殺すように、静かに、誰の目にもつかないように食事をしている。
本当に、目立ちたくないのだろう。
そして、突然。
彼女の視線が、垣根の裏へ向いた。草が伸び放題の場所。人目につかない裏側。
まるで魅入られたように、その草を凝視している。
──何故草なんかを見ている? まさか、草を⋯⋯抜こうとしているのか?
そんな令嬢がいるはずがない。そう思ったが、彼女の手は、ほんの僅かに動いた。指先が草に触れそうになる⋯⋯が、寸前で止まった。
彼女がこちらを一瞬見た。気づかれたかと一瞬だけ目が合う。
その顔に浮かんだのは、「しまった」という表情だった。
そして彼女は、草を抜くのを諦め、静かに食事を片付け、こちらに何の言葉もかけず去っていった。
──面白い。
そう思ってしまった自分に驚いた。人に対してそんな感情を抱いたのはいつ以来だろうか。
彼女は、たぶん気づいていない。彼女が静かに生きようとすればするほど、目立ってしまうということに。
周囲の誰よりも「関わりたくない」と強く思っている者にほど、皮肉にも人は引き寄せられる。
──リアーナ・メイフィルド。
王子の側近としての義務の中で、俺はまた、余計な興味を抱いてしまったのかもしれない。