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作者: 京泉
王子との遭遇は静かに、最小限に。
 昼休み。初夏の陽光が降り注ぐ学園の中庭には、鮮やかな緑と白い噴水のきらめきが交じり合い、まるで一枚の絵画のようだった。 
 高木が作る木陰には丸テーブルと椅子が並べられ、貴族の子弟たちはその上に広げられた豪奢なランチボックスを囲みながら、優雅に談笑している。

 その一角、ひときわ目を引くのは、制服ではなく真紅のドレスに身を包んだ少女――グレイ公爵家の令嬢、ラリッサ・グレイの姿だった。鮮やかなルビーのようなドレスは規定違反を問題としない華やかさで、それを誰も咎めないのは、彼女の身分と影響力の強さゆえだろう。

 私もそのテーブルに着席していた。もちろん、自ら望んでそうしているわけではない。

 ラリッサに「気に入った」と言われてから彼女は勝手に私を「ご友人」に任命し、それ以来、私の昼休みはこの席に固定されることとなった。

 静かに目立たず過ごしたい私にとって、これ以上の災難はない。けれど、彼女の誘いを断って角を立てれば、面倒なことになるのは明白だった。ならばせめて、できるだけ影を薄く。空気のように過ごすしかない。

「リアーナ、聞いてくださる? 今朝ね、アルフレッド殿下に褒められましたの。早起きは良いことだって。貴女が毎日無駄に早く来てるから、合わせて差し上げているだけなのに」

 カップを持つ手を止めず、私は答える。

「お気遣いありがとうございます」

 ラリッサはうっとりと笑った。彼女の周囲に座る取り巻きの少女たちも、即座に声をそろえる。

「淑女の鏡ですわ」
「さすがですわ、ラリッサ様」
「ラリッサ様のお優しさ、感動しましたわ」

 その言葉に彼女は満足そうに頷くが、私はそっと紅茶の表面に視線を落とす。湯気が揺らめくその中に、自分の顔がぼんやりと映っている。

 正直、どうでもいい。

 王子――アルフレッド殿下。ゲームの中でヒロインと結ばれる王道のヒーロー。金髪碧眼、眉目秀麗、頭脳明晰、礼節を重んじる模範的な王族。存在そのものが光に満ちていて、だからこそ、彼の物語に巻き込まれるのは避けなければならない。

 彼と関わるのは、破滅ルートへの近道だ。

 貴族令嬢としての教養は一通り身につけてきたつもりだが、他人の注目を浴びる覚悟までは備えていない。私はあくまでもモブ。背景に咲く名もなき草でいい。

「⋯⋯まあっ!」

 唐突にラリッサが声をあげ、その視線の先、噴水の向こうから歩いてくる二人の姿に、私も息を呑んだ。

 ひとりは、金色の髪を陽光にきらめかせた青年。すらりとした体躯に気品ある仕草、控えめながら温かみのある笑顔。アルフレッド殿下。そしてその隣に並ぶのは、銀色のエルンスト・ハイベルグ。

──ううっ⋯⋯このタイミングで、王子。

 息をひそめる私をよそに、二人はまっすぐにこちらのテーブルへと歩を進めてくる。他のテーブルにいた生徒たちが次々と立ち上がり、頭を垂れる様子が視界の端に映る。ざわめきが、波のように中庭を包んでいった。

 できれば、通り過ぎてほしかった。せめて視線の端にすら入らない位置を通ってくれればよかったのに。

 けれど現実は容赦ない。アルフレッド殿下はそのまま、こちらの卓の前に立ち止まった。

「やあ、ラリッサ。それに、皆さん」
「アルフレッド殿下、今ちょうど貴方のお話をしておりましたの」

 ラリッサが上品な笑みをたたえて立ち上がると、取り巻きたちもそれに続いて一斉に席を立ち、優雅な礼を取った。私も、少し遅れて椅子から立ち上がる。できるだけ静かに、存在を消すように。壁の一部になれと、自分に言い聞かせる。

「それは光栄だな」

 王子の笑顔は、まるで陽だまりのように柔らかい。彼の放つ空気は、周囲の緊張を溶かすように穏やかで、それでいて人の視線を引きつけて離さない。これが⋯⋯ヒーロー属性ってやつか。

 私は自然に目を伏せた。顔を見られたくない。存在に気づかれたくない。

「そちらに、新しい顔があるようですね」

──見つけなくて良いのに!

 その一言に、心臓が跳ねた。目を上げると、アルフレッド殿下が私の正面に立っていた。彼の碧眼が、まっすぐにこちらを見つめている。周囲の空気が張り詰め、私は、喉が一瞬だけ閉じるのを感じた。

「失礼を。お名前を伺っても?」

 この場において、沈黙は最も目立つ選択だ。私は息を整え、心を空にして答えた。

「畏れながら、メイフィルド子爵家の娘。リアーナ・メイフィルドと申します、殿下」

 声は震えていなかった。表情もきっと、崩れていないはず。内心は嵐のようだったけれど、少なくとも外側だけは、完璧に取り繕った。訓練の成果、今ここに発揮。

 アルフレッド王子の眉が、少しだけ持ち上がった。

「メイフィルド子爵……ああ、お父上は財務省の監察官殿ですね。細やかな部分にも目が届く、我が国の財政を陰から支えてくださっている優秀な方です」

──王子って、そんなとこまで把握してるの!?

 内心の叫びを抑えながら、私は深く頭を下げた。

「はい。畏れながら父は常々、殿下のご采配に敬服しております」
「ははっ。メイフィルド子爵には、僕はまだまだ及ばないよ」

 彼の口元が緩み、優しげな笑みがこぼれる。その柔らかさに、少しだけ息がしやすくなった気がした。あれが、王族の「顔」なのだろう。人を緊張させず、威圧もせず、けれど確かな威厳を感じさせる笑み。

「そうか。ラリッサが早起きするようになったのは、リアーナ嬢のおかげだな? メイフィルド子爵家は、丁寧な生活を重んじている家だと聞いているよ」

 その一言に、ラリッサの肩がピクリと揺れた。

「まあっ! アルフレッド殿下、違いますわ。わたくしの努力ですわよ。わたくしがリアーナに合わせてさしあげてるのです。ね、リアーナ?」
「ええ、お気遣いをいただいております」

 何の感情も込めずにそう返すと、ラリッサは満足げに微笑んだ。私としては、誰が努力したかなんて、どうでもよかった。問題は、なぜその話題を殿下が拾ってしまうのかという点である。

──アルフレッド王子⋯⋯一言余計なのよ。

「さて、女性の会話に長く割り込むものではないな」
「そんなことありませんわ。わたくしはアルフレッド殿下とご一緒したいと、こんなに思ってますのに」

「ははっ。ラリッサ、友人は宝だ。大切にしなくてはならないよ」
「分かってますわ……でも、寂しいですわ。そうですわ! なら、帰りに新しいドレスを見に行きましょう。王都で流行りのデザインなんですって。殿下にもお似合いになる色、選んで差し上げますわ」

 王子の口元が、ほんの僅かに引きつったのを、私は見逃さなかった。

「⋯⋯ああ、わかった。では、失礼するよ」

 彼が去っていくと、ラリッサはうっとりとした表情でその背を見送り、ゆっくりと席に戻った。

 私はというと、ようやく静かになった空気の中で、こっそりと深呼吸をひとつ。まさか、直接名前を聞かれるとは。緊張で背中に汗をかいていた。これでしばらくは平穏に過ごせる。そう思ったのも束の間、私の肩に、ぽん、と軽く置かれる手があった。

「リアーナ。勘違いなさらないでね。アルフレッド殿下はわたくしを褒められたのよ。早起きはわたくしの努力ですわよ?」

──ですよね。

「貴女を褒めたわけではないのですから。でも、自分の立場を弁えた姿勢は、見込んだ通り。わたくしは満足だわ」

──だめだ、これ⋯⋯絶対に悪化してる。

──────────────────

 午後の授業が終わると、私はラリッサに捕まる前に、逃げるように図書室へ向かった。

 重たい扉をそっと押し開ける。誰もいない静寂の空間に、ほっと胸を撫で下ろす。ここには取り巻きも、王子も、誰の注目もない。小さく安堵の息を吐きながら、私は奥の棚の陰へと移動した。

 陽の傾いた窓から差し込む光が、書架の隙間から細く射しこむ。その光の筋に目を細めながら、私はぼんやりと外を眺めた。

「⋯⋯派手な人生なんて、求めてないのに」

 ぽつりと漏れた独り言が、しんとした空間に溶けていく。けれど、その静寂を破ったのは、すぐ後ろから聞こえた低く落ち着いた声だった。

「君は、独り言が多いな」

 わっと叫びそうになるのを必死で堪えて振り返ると、そこにはエルンスト。

「エルンスト様⋯⋯」

 彼の姿が、書架の影から現れた。いつものようにきちんと整った制服姿、肩にかかる銀灰の髪が光を反射して揺れている。

「申し訳ありません。つい⋯⋯癖で」
「癖なら直した方がいい。誰が聞いているか分からない」

 冷たい言葉にも聞こえるけれど、その口調に刺々しさはなかった。あくまで事実を淡々と述べるような声音。けれど、私は思わず口を尖らせて反論してしまった。

「今のは私の心が漏れただけです。何も、誰にも迷惑をかけるようなことは言っておりませんでした」

 派手さはいらない。私自身の心から漏れ出た本音。

 彼は一瞬だけ黙り、そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「本心は誰彼構わず迂闊に見せるものではない⋯⋯尚更、独り言は直した方がいいだろう?」

 返ってきたのは、思いのほか優しい声だった。驚いて見上げると、彼はまっすぐに私を見下ろしていた。その視線に、あからさまな好奇心や軽薄な興味はなかった。ただ、まるで何かを見定めるような、理知的で穏やかな光が宿っていた。

「それに──君は少々、運が悪いからな」
「⋯⋯そう思います」

 ぽつりと呟くと、彼は頷いてから、手にしていた本をひとつ差し出した。

「これを読んでおくといい。少しは役に立つかもしれない」

 表紙には、くっきりと金文字でこう記されていた。

『貴族礼法における距離の取り方』

 ──あれ? これって、もしかして、私に合わせて選んで⋯⋯。

 私が呆けて本を受け取っている間に、彼は静かに踵を返し、歩き去っていった。迷いのない足取り。凛とした背中。

 その背を見送っているうちに、私は本を胸に抱えながら、そっと呟いた。

「気遣い、された?」

 まさか、そんなはずはない。王子の側近として、常に合理性と効率を重んじる彼が、空気のような私を気遣うなんて。
 けれど、もし。ほんの少しだけでも、そんなふうに思ってくれる人が、この学園に存在するのだとしたら。

 私の目の前に広がる世界が、ほんの少しだけ、色づいて見えた。

 それでも、私の方針は変わらない。派手な交友も、物語の中心も、私には必要ない。

 今日も、明日も、草を抜くように静かに。目立たず、穏やかに、地味に過ごしていく。

 そうでしょう、リアーナ。
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