残酷な描写あり
鳥籠の理想郷
――――その崖から見えるもの全てが、小さなひとつの世界であった。
里の中央には、遠く離れたこの崖からも見上げるほどそびえる巨木が、まるで玉座に鎮座する王の如く佇んでいた。
その巨木の根元にはさまざまな建物が密集しており、遠目からでも活気が見て取れるほどである。
そして、そこらかしこにゆったりと飛び回っている蛍の群れが、まるで星空のように光り漂う。
無数の輝きに、ほんのりと漂う白霧。それらが合わさり、どこかおぼろげな夢中の光景を映し出しているかのようだった。
外界からの来訪者を阻む惑いの霧は、里を覆うように形成されていた。
男と少女がいる崖の後方から、ぐるりとあの中央の巨木の向こう側まで漂っていることだろう。
空はどうかというと、やはり霧によって覆われていた。
だが太陽の光は遮られ衰えつつも、この里へ光の恵みを降らしているようだ。
おぼろげに漂う白霧に、樹々や建物の幹色が映える。息吹く自然が静かな風に揺らされ、濃薄さまざまな色の葉が、波立つように弾んでいる。
誰もが聞いたことも想像さえもしなかった幻想が、伝承の一節に謳にたる御伽のような光景が。
いま、確かに男の目の前にあったのだ。
「どう? 外界に比べここは、きっと何もかもがかけ離れているはずよ」
言葉を失っていた男に、少女はしたり顔で話しかけてきた。
「おれは自分が何事にも動じなくなったと思っていたが、さすがに度胆を抜かれた」
「ふふ、そうでしょう。ここから里を見下ろすのがわたしは大好きでね、いつもお父様の目を盗んで家から抜け出してきているのよ。今日だってそう、でも七日も前から森の中から人の気配が消えないから気になって、きまぐれで少し寄り道してみたの。きっと帰ったら叱られるわね」
「そのきまぐれに、おれは命を救われたのか」
「そういうこと。わたしはとびきりなの、魔女の中で実力も、きまぐれさもね。常命の存在はいつかは死ぬ、だからそのまえに好きなことをしなければ、この世に生まれた意味がないわ」
少女は目を細め、遠方を見入る。
「やりたいことをして死ぬ。それこそ人が生きる意味よ」
飄々とした態度はなりを潜め、少女の表情はえらく険しく、神妙であった。まるで、自分に言い聞かせているように。
「だから、わたしは嬉しい。あなたが人として生きる選択をしてくれたことが」
「……」
曇りのない紅き眼でじっと見ながら、少女は男に微笑んだ。
だが男は声が出なかった。心を蝕む罪悪感が、それを許さなかった。
「あなた、剣士なのでしょう? その大きな剣、振って見せて欲しいな」
「なんでそんなことを」
「いいからいいから。命の恩人の他愛ない願いよ、別に何かが減る訳ではないでしょう? それとも、人を斬るにはいささか大仰な剣は飾りだとでも言うのかしら?」
「なんだと? ……いいだろう、だったら望みどおりに見せてやる。離れていろ」
男は眉に皺をよせ、十字剣を慣れた手つきで華麗に抜き放った。深く息をため、両足でしっかりと大地を踏みしめ、剣を構える。
次の瞬間……十字剣は意志を持ったかのように、空に黒閃を描き出す。
渓流の水の流れのような、なめらかな静。濁流の嵐のような、苛烈な動。
緩急をついた剣の舞は、ただ適当に剣を振るっている訳ではない。
細身の体の中にある鍛えに鍛え上げられた筋肉と、自在に大きな剣を操る技量があってこそ成せる技であった。
剣にも多少の見識がある少女は、すぐにそのことを理解した。
「驚いたわ。わたしの見立ての何倍も、どうやらあなたは強いみたいね。あの怪物に臆することなく挑もうとしたのは、あながち蛮勇というわけではないのかも」
「……意外なものだな。あれだけ魔法を使える身で、剣の知識もあるのか」
「この里では女は魔法を、男は剣を主に習う。だから剣を振るったことはあまりないけれど、目が肥えているから良し悪しぐらいは分かるわ」
「妙な風習だな。何に優れているかなどの適正に、性別など関係ないだろうに」
男の言葉に、少女の目の色が濃くなった。
「……へぇ、やっぱりあなたは面白い人ね。わたしもそう思うわ、慣習に従って才能を枯らすのはとてももったいないもの。でもそれが、この里の掟よ。鉄なんかよりもよっぽど固い、鋼鉄の掟。そうして何千年もの間、この小さな世界は回ってきた」
しばらくの間、男は黙々と剣を振り続けた。その光景を少女は興味深く観察している。
「あなた、名前は?」
少女の問いに、男は瞬時に凍りついたかのように動きを止めた。
「おれに……名前はない」
自分は、少女ら魔法の一族をこの地に追いやった末裔だ。
マルグ・エストリアという、騎士であったころの名前など、どうして名乗れようか。
「まさか。わたしの読んだ本が正しければ、奴隷とやらにも名前ぐらいはあるはずよ。それともここ数千年の間に、名前という文化すら消えてしまったのかしら」
男の表情は暗く、俯いていた。そして呻くように、恨みがかった重い声で呟いた。
「この身体に流れる血が赤から黒になったときより、おれが人ではなく化け物になったあの日より……おれは名前を捨てた。棄てざるを得なかった」
「ふうん、なるほどね」
少女の次の一言に、無名の男は大きくたじろいだ。
「じゃあ、わたしが名前を付けてあげる」
「なに?」
「ひとつ質問。あなたはきっと強い。とても、とってもね。でもそれだけ強くなるには理由があったはず。それを教えて欲しいわ」
少女のまどろむかのような微笑。とても年相応とは思えない、絵に描かれた肖像を切り抜いたような、そんな神秘的なものであった。あるいは、魔性と言うべきか。
「……力無き者を理不尽や不条理から守るため。それだけが、おれの生きる理由だった」
幾重にも絡まった糸がほどけるように、男の口はひとりでに動いていた。
「ふむ、守るために強くなったと。いいじゃないの。私利私欲のための強さなんて、たかが知れているものね」
少女は目を閉じ、顎に手をのせて考え込んだ。やがて少女の頭の中で何かが弾けたのであろう、ぱっと目を見開き男の手をとって、こう告げたのであった。
「スクート。それがあなたの新しい名前よ。これは古い魔女の言葉で、盾を意味するの。自分の為だけには戦えない、生まれながらの守り手にはふさわしい名前のはずよ」
「スクート。スクート、か」
「どう、気に入ってくれた?」
「……ああ」
スクート。少女に告げられた名を、男は口の中で何度も転がした。次に問うたのは、男であった。
「お前の名は?」
少女はその問いを待ちわびていたのだろう、満面の笑みで答えた。
「わたしはリーシュ。リーシュ・クロスフォードよ。退屈な日々を持て余し、毎日のように深窓から飛び出そうと画策している箱入りの一人娘」
リーシュは崖の淵まで歩いていくと、スクートに振り向き両手を広げ、期待のこもった眼で彼を見つめ笑う。
「ようこそ異邦の世捨て人よ。私は歓迎するわ、スクート……あなたのことを。ここは魔女の里、ミスティア。霧によって外界より隔絶された、あの世でもこの世でもない、もうひとつの小さな世界」
森の奥から一陣の風が吹き抜けた。男の背を、前へと押すかのような風であった。
つばの広い真っ白な三角帽子から垂れている、リーシュの紡いだばかりの絹のような長髪が、風を包み込むようにぶわりと舞い上がる。
「約束どおり、わたしはあなたに救いと居場所を与える。あなたには、わたしの従者になってもらうわ」
「……従者? それは、守人という意味か?」
「ええ」
男は目を点にし、数度まばたきした。
「待て、おれの黒い血は……毒だと言ったはずだ。何かの拍子に血がかかってしまったら、おれは盾ではなく刃になってしまう」
「もちろん、わかっているわよ。でもスクート、あなたにとって……何より生きる意味になるはず」
どうにもリーシュは、本気のようであった。
「それにこれは、わたしのためでもあるのよ。黒でもなんでもいい、わたしのただただ白く無為で退屈な人生に……彩りを与えてちょうだい」
「おれの素性は、あまり褒められたものではないぞ。特に、お前たちのような存在には……」
「かまわないわ。どのような出自であったとしても、わたしはあなたを許す。さあ、返事を聞かせてちょうだい」
スクートにとってその一言は、まるで神の救いの言葉であった。
また何かのために、生きることが許される。
本当の意味で、救われることができるのだから。
「……わかった」
霧に囲まれ隔たれた小さな世界、そのほとりにある崖の上。若葉が風になびく中、白き魔女と黒き剣士は契りを結んだ。