残酷な描写あり
R-15
天使が死んで、生まれた日(4)
「念のため、上も調べておこうか」
「そうだね」
二階を探索している間に、二人はさらに上へと続く階段を見つけていた。
幾つもの鍵と三重になった鉄の扉で厳重に守られていたが、物理的な施錠であればイーハンの力で簡単に無力化できた。
扉の向こうには、一階と二階を繋ぐ階段よりも遥かに幅広で、上り下りがしやすい程度の傾斜に抑えられた階段が上へと続いていた。
階段の先には、さらにもう一枚の鉄の扉が待っていた。それもイーハンが開けた。
扉の向こうは、監獄の中とは思えない程、調度品が揃えられた部屋だった。
天井には豪華な燭台、床には毛足の長い絨毯が敷かれ、格子窓には厚い刺繍入りのカーテン、家具も一通り揃えられ、天蓋のついた大きな寝台もあった。
寝台の布団は一人分くらいの盛り上がりがあり、物音に気付いて、レースの向こうで寝ていた何者かが身を起こした。
「だあれ?」
舌足らずな声と共に、寝台を覆うレースの中から手が伸びてきた。
「えっ」
その姿を見て、リンは思わず声を漏らした。
起き上がったのは、薄い寝間着に身を包んだ少女だった。
腰の位置よりも長い、レース糸のような銀色の髪が折れそうに細い身体を覆い、その下から透かして見える肌はリーフよりもさらに青白く病的なまでに透き通っていた。
緑の双眸には不安の色を浮かべ、急に現れた見知らぬ二人を見ていた。
身体的特徴から見て、リーフと同じ景月族の血統だが、そんな存在はこの国に一人を除いているわけがないのだ。
――お前、親戚いねぇんじゃなかったのか?
事情をよく知らないギルだけは、場違いに呑気な声をリーフにかけた。
「……」
リーフは黙ったまま、フードを脱ぎ外套の前を少し開けて、顔を露わにした。煤けた髪は、フードと擦れたせいで元の銀色が所々見えていた。
さらに髪についた煤を手で払い、銀に黒が混じった月色の髪を少女によく見せた。
「え……」
少女の目がまるくなった。
「もしかして、リーフ……なの?」
その言葉に、リーフもまた目を見開く。
「どうして、ボクの名前を?」
「リーフよね、そうよ、リーフよ! 私のこと覚えてないの、ドロリスよ、私はドロリスよ!」
少女はリーフに縋り付いた。少女の虚弱そうな見た目と違わず手足は棒のように細く、背丈はリーフの胸元にやっと届くくらいしかなかった。
リーフは女らしからぬ背の高さだが、それでも男と比較すると小柄な部類に入る。
そのリーフが胸元に飛び込んできた少女を真上から見下ろし、後頭部に二房の黒髪を見つけられるということは、かなり小柄だ。
「ねえ、まさか、知り合い?」
リンは少女の頭をちょいちょいと指差した。リーフが許すならば、今すぐ少女を階段に突き飛ばして偶然にも転落死を装いそうな顔をしていた。
リーフは首を少し傾げた後、軽く首を横に振った。音を立てずにリンが舌打ちする。
表情には一切出さなかったが、リーフは内心ではかなり混乱していた。
リーフという名を知っているのは革新派とリンのみ、しかも革新派で素顔を知っている者は死に絶えた今、その名を呼ぶ者はいなくなった筈だった。
だが、このドロリスという少女は顔を見ただけで言い当ててみせた。それに、彼女は絶えてしまった筈の教皇の――半獣の血統を受け継いでいるように見える。
「どうして、君は……」
「ああ本当に夢みたい! リーフが私を助けにきてくれたなんて、ここから出られるなんて!」
ドロリスはリーフにしがみついたままうわごとのように言葉を紡ぎ、とても会話ができるような状態ではなかった。
リーフには確認したいことが山程あったというのに。
埒が明かないので、リーフは仕方なくドロリスの肩にそっと手を置き、できるだけ優しく引き離した。
「ここに留まるのは危険だ。早く行こう」
「え、ええ、ええ! そうね、早く帰ろう!」
ドロリスの手を引き、リーフは階下へと降りた。その後ろを、面白くなさそうな顔でリンが続いた。
「ねえリーフ、リーフが無事ってことはセイラもいるのよね。セイラはどこにいるの、私たのしみ!」
階段を下りていく途中でも、ドロリスの独り言は続いた。
「ずっと待ってた。ずっとずっとずっとずっと待ってた。もう誰もこないんじゃないかって。カルファやリュドも来てくれないかもって怖かったの」
時々、その内容に気になる点がいくつかあったが、途切れることのない言葉にリーフが口を挟む隙は全くなかった。
「怖かったわ、みんなから引き離されてずっとずっとずっと一人だったもの、怖いことや痛いことがあると、リーフに助けにきてほしいって思っていたわ。だから本当に嬉しいの、リーフが来てくれたことが。ねえ、本当よ」
監獄棟から出る一歩手前で、リーフが急に立ち止まった。
立ち止まるのが遅れて半歩前に出たドロリスの肩を掴んで、強引に後ろへとさがらせる。
「どうやら、もうボクらのことは知れ渡っているみたいだ」
「どうしたの?」
ドロリスはリーフの言葉にぴんとこなかったようで、背伸びをして前を覗こうとした。さらに後ろに押し込んで留めた。
「数は?」
リンは長銃の機関部を開き、弾が装填済みであることを確認した。
リーフ程に特化した感覚は持っていないが、リンとて戦いで飯を食っていた身である。壁越しに剣呑な雰囲気を勘付くことは容易かった。
「後衛だけで三十、いやそれ以上。前衛も含めると百超え。罠を警戒しているのか、門の外で待ち構えている」
リーフは壁越しに兵の配置を読み取り、事前に決めていた手信号でリンに布陣を伝えた。
リーフの持つ特異な感覚――〈害覚〉は、相手がこちらに抱いている敵意を感じ取ることができる。精度も高く、分厚い石壁に囲まれていても、櫓の上に立っているかの如く敵の位置を把握していた。
「結構開けた場所だったよねー。跳弾は心配しなくていいけど、バラけられるとちょっと面倒かも」
リンはひとまず長銃を小脇に抱えると、昨日買ったばかりの陶器の瓶を取り出した。蝋で固められた栓を瓶の中に落とし込み、押し固めた綿を瓶の口に詰めた。
――なぁ、次は俺を出させろよ。乱戦なら任せとけ。
リーフの意識の表層をギルの声が撫でた。久々の戦いの気配に、少し語尾に高ぶりが垣間見えた。
「別にいいけれど、リンと喧嘩はしないように」
――そーいうのは向こうに言ってくれねぇか。
「分かってるわよ、それぐらい。骨董品のくせに一言多い」
リンは少しむくれながら、腰に提げた火口箱から火打ちを取り出した。
「ね、ねぇ、一体――」
まだ状況が理解できていない様子で、ドロリスはリーフの外套の袖を引っ張った。
リーフは無言でドロリスの手を振り払うと、有無を言わせず槍を押し付けた。
「下がってな、お嬢ちゃん」
リーフは口の左端を釣り上げて笑うと、背の魔剣に手をかけた。
リンが瓶の口に火を点けた。
「仕事しろよ、クソ狼」
「言われなくてもやってやるっての」
扉の隙間から豪速球で放り投げられた瓶に続いて、リーフが外に飛び出した。
目視で確認した相手の布陣は地上に軽歩兵と銃士の一団、左右の高台に支援の銃士隊、後詰には重歩兵隊――リーフが読んだ通りだった。
抜き放たれた魔剣が一番手前の騎士を盾ごと両断、同時に火炎瓶が遠く離れた地上の銃士隊の真ん中に命中、どよめきが広がった。
間髪入れずにさらに火炎瓶が飛来、魔剣の一閃で三人纏めて薙ぎ払われる。
炎の赤と、血の朱が夜闇を鮮やかに彩った。
「怯むな、行けい!」
布陣の後方で、指揮官と思しき男が一喝した。磨きぬかれた紋章入りの鎧を纏い、業物と思しき剣を腰に携えていることから高位の騎士であることが分かる。
既に逃げ腰になっていた前衛は指揮官の声に再び奮い立ったが、轟く銃声と共に指揮官の頭の半分が吹き飛んだ。
「暗いからって油断しすぎ」
難度の高い夜の狙撃を事も無げに行い、リンは呟いた。
続けて炎にまかれて混乱状態の銃士隊に向けて適当に銃弾を放ち、リンは慣れた手つきで次弾を装填した。一発の銃声で複数の人影が倒れていった。
モンスターの防弾性に優れた皮や鉄のような甲殻を破壊できるよう、対モンスター弾は貫通力に重点が置かれている。勿論、破壊力も折り紙つきだ。
中央部ではそれを対人戦に転用し、装甲車や重武装兵の駆逐に用いているというえぐい噂もある。
身に纏える程度の薄い鋼や持ち運べる防壁など、人を蹂躙する獣を狩る武器の前では紙も同然、縦列を纏めて貫くことも容易かった。
指揮官を討ち取られたことで、騎士団の混乱は加速した。最も前衛に近い銃士隊は完全に麻痺、他の銃士隊も狼狽えている者が多い。
派手に暴れ回るリーフに惑わされずリンの方を狙う者もいたが、リンも安易に外に顔を出す馬鹿ではない。
その間にも、魔剣によって前衛の数は瞬く間に減っていった。銃士隊がうかつに攻撃できないよう、巧みに兵との間合いを詰めては斬り捨て、時に壁としてまだ息のある者を前に押し出しては纏めて両断。
そのくせ、リンの射線上には立たず後方支援にも抜かりはない。
たかが一人の剣士、然れど魔剣を携えた魔戦士は時に一騎当千の活躍をする。
リーフの外套が血を吸い、暗い色に染まりつつある頃、前衛の最後の一人の頭が宙を舞った。
残るは、リンの狙撃で徐々に数を減らしつつある二つの銃士隊と、遥か後方で未だに静観を続けている重装の近衛騎士だけだった。
リーフの周囲にはもう敵がいない、となれば銃士隊の狙いは一点へと定まる。
そうなることを見越し、リーフは近衛に向かって疾走した。
――弾はテメェに任せた。
ギルは身体の支配をあっさりとリーフへと返し、意識の片隅へと引っ込んだ。
リーフは背中に十数の殺意を感じた。銃弾が放たれるまで猶予はない。
絶え間ない炸裂音と共に銃弾の雨が地面を穿った。リーフの背中にも数発命中し、重たい衝撃と共に外套を引き裂いた。
だが、弾丸は皮膚の表面を滑って弾かれた。着弾の瞬間、外套の下でリーフの肌が白い鱗状に変化していることに気付く者はいない。
リーフに流れる守りに秀でた神獣の血の力の前には、唯の鉛玉など豆鉄砲の威力しかない。
着弾の衝撃に耐えながら、リーフは近衛騎士の中央に魔剣を振りかぶり突進し――転倒した。
「――っが」
左足を貫く激痛、続いて両腕から熱い血潮が噴き出した。
自らの血で赤く染まる視界の中、リーフは腕にくいこんだ鋼の牙を気力を振り絞って睨みつけた。
リーフの両腕と左足にそれぞれ食らいついているのは、獣の頭を模したトラバサミだった。黒光りする牙に歯車の毛並み、目玉はおぞましいまでに白い呪具の玉、喉を飾る剃刀のような刃物。
首から下は無く、鎖が繋がっていた。
――っ、このくそったれが! ここまで質の悪ぃクソ魔剣は久しぶりだぜ!
ギルの悪態が響いた。
トラバサミは魔剣だった。しかも、神殺しと騒動霊を混合している。
神殺しによる高い攻撃力と騒動霊の機動性能を合理的に活用した形だが、そんな配合をして騒動霊が蝕まれないわけがなく、正気を完全に失っていた。
ただ近くの命を貪ることに特化したケダモノであり、誰にも制御できない。
弾丸に紛れて弩で打ち出された魔剣は、飛び道具の威力を軽視していたリーフに致命的な一撃を与えていた。
リーフは自分の油断を呪った。殆ど潰えたとはいえ、嘗ては本物の神がいた地だ。強力な魔剣を上層部が未だ保有している可能性を血統が絶えたことを理由に甘く見ていた。
「代々の教皇に伝わる神の御霊をも食らう魔剣です。封を解いて正解でしたね」
震えた女の声がした。
リーフは声の方を見ようとしたが、両腕の肉を引き裂かれる激痛の中ではそれすら叶わなかった。
声の主はリーフへと歩み寄った。
「触……るな」
視界の隅に見えた細い指に、リーフは唸った。
しかし、指はリーフの意に反して血に濡れた髪に触れた。
「シルヴィア……どうして、あなたは、嗚呼……」
掌がリーフの顔を包み、ゆっくりと持ち上げた。ようやくリーフの視界の中に相手の顔が入った。
銀の長髪に一筋だけ暗い色を流した、美しい女性だった。だが、女の盛りを過ぎた肌にはどこか張りがなく、飾り立てた美しさに陰りが見え始めていた。
リーフの顔を映す深い緑の瞳は何処か虚ろで、涙を目尻に溢れそうなほど貯めていた。
リーフが最後に彼女の顔を見たときに負っていた深い悲しみは、まだ彼女を蝕んでいるようだった。
リーフの養い親にして敬月教の最高権力者である教皇は、リーフの顔を悲しげに見つめていた。
「嗚呼……どうして、変わってしまったの。私は、私は血は繋がっていなくても貴女を愛していたのにっ。お願い……だから、この仕打ちを嘘だと言って……」
その言葉に、リーフは聞き覚えがあった。聖都から脱出する前、もう一人の殺し屋と共に騎士たちに組み伏せられたリーフにも同じ言葉がかけられていた。
その時には、リーフが返す前に引き離され、そのまま軟禁された。
だから、リーフはその時言おうとしていた言葉を紡いだ。
「嘘……だと、したら」
「え?」
「嘘、だったら……私は、救われ、ますか……そんな、ものは、救い、ではない……何も、変わら、ない」
止まらない出血と激痛で朦朧とする意識の中、リーフは一言一言を噛み締めた。
リーフの脳裏には十一年に渡るこの国で過ごした記憶がよぎった。
周りから一方的に後継者の『器』として期待され、同時に下賤の生まれと蔑まれる毎日。いつの間にか敵意のどぶのような味が分かるようになってから、それが途切れる日はなかった。
たった二人を除いて、常に敵意を与えられる環境で人形として扱われ、とっくに彼女は正気を失っていたのかもしれない。
それでも、荒んだ感情が渦巻く日常の中で、彼女の心は敵意を超える何か素晴らしい感情を欲していた。
もしかしたら、それは『愛』というもので、誰かを今度こそ守りきれたなら手に入るのではないか、敵しか知らない自分でも感じることができるのではないかと思った。
だからこそ、利用されていると分かりながらも、革新派に身を沈めたのだ。その先は間違いなく死だったが、それが役に立つのであればそれでよかった。
死の先に『愛』があればよかったのだ。
しかし、その全ては無駄に終わってしまった。
結局、彼女のせいで仲間は全員無惨な死体に変わり、その数倍の敵の死体の山を築いて、敵意と憎悪を煽り立てて、結局何も果たすことができなかった。
絶望と言えるほど希望を抱いていたわけではないが、もう彼女一人で変えられる運命は残っていなかった。
この状況下で、命乞いができるほど、彼女は善性を信じていなかった。
「全部……本当です、お母様」
苦痛に歯を食いしばりながらリーフが告げた言葉には、どうしようもない拒絶が滲んでいた。
教皇の顔から表情が抜け落ちた。
教皇の手から力が抜け、リーフは頭を地面にぶつけた。衝撃が傷口に響いてリーフの口から呻き声が漏れた。
「リーフッ!」
少女の金切り声が響いた。
ドロリスが倒れたリーフの側へと駆け寄っていった。
さすがのリンも、戦闘の片手間にドロリスの暴走を食い止めることは無理だったようで、苦い顔をして扉の隙間を限界まで閉ざして籠城の構えをとった。前衛がやられた状態では時間稼ぎにしかならないが、それが現状の最善の選択肢だった。
騎士たちは監獄から飛び出してきた少女の、月の色をした髪を見て唖然としたまま誰も状況が理解出来ずに動けなかった。
「あなた、一体」
「リーフ! お願い、死なないでっ!」
ドロリスは教皇になど目もくれず、地面に倒れ伏したリーフの側に膝をついた。
重傷のリーフの身体を揺すり、ドロリスは涙を流した。
リーフは揺すられて広がる傷口に、呻き声をあげること以外できなかった。長時間の出血に、顔の血の気も失い始めていた。
◆ ◆ ◆
「あん畜生め……」
籠城中のリンの口から本日一番の殺気が篭った台詞が零れた。
遠くから見守るしかないリンとしてはドロリスの頭をぶち抜きたい衝動に駆られたが、的がリーフに近すぎるため安易に狙うことができない。
――あのー、リンさんお願いですから早まった真似は……
「分かってるわよ、それくらい」
ドロリスにほっぽり出されて床の上に転がるイーハンの忠告に、リンは不機嫌そうに返した。此処で外に出れば、部外者である彼女は間違いなく蜂の巣にされてしまう。
今、五体満足で動けるのはリンだけなのだ。
感情的に動くよりも、あるのかないのか分からない奇跡に賭ける方が勝算があるのは正直癪だったが、その時を待つより他はない。
女の勘、と言うより他にないが、リンには不思議と奇跡が起こる確信があった。
「そうだね」
二階を探索している間に、二人はさらに上へと続く階段を見つけていた。
幾つもの鍵と三重になった鉄の扉で厳重に守られていたが、物理的な施錠であればイーハンの力で簡単に無力化できた。
扉の向こうには、一階と二階を繋ぐ階段よりも遥かに幅広で、上り下りがしやすい程度の傾斜に抑えられた階段が上へと続いていた。
階段の先には、さらにもう一枚の鉄の扉が待っていた。それもイーハンが開けた。
扉の向こうは、監獄の中とは思えない程、調度品が揃えられた部屋だった。
天井には豪華な燭台、床には毛足の長い絨毯が敷かれ、格子窓には厚い刺繍入りのカーテン、家具も一通り揃えられ、天蓋のついた大きな寝台もあった。
寝台の布団は一人分くらいの盛り上がりがあり、物音に気付いて、レースの向こうで寝ていた何者かが身を起こした。
「だあれ?」
舌足らずな声と共に、寝台を覆うレースの中から手が伸びてきた。
「えっ」
その姿を見て、リンは思わず声を漏らした。
起き上がったのは、薄い寝間着に身を包んだ少女だった。
腰の位置よりも長い、レース糸のような銀色の髪が折れそうに細い身体を覆い、その下から透かして見える肌はリーフよりもさらに青白く病的なまでに透き通っていた。
緑の双眸には不安の色を浮かべ、急に現れた見知らぬ二人を見ていた。
身体的特徴から見て、リーフと同じ景月族の血統だが、そんな存在はこの国に一人を除いているわけがないのだ。
――お前、親戚いねぇんじゃなかったのか?
事情をよく知らないギルだけは、場違いに呑気な声をリーフにかけた。
「……」
リーフは黙ったまま、フードを脱ぎ外套の前を少し開けて、顔を露わにした。煤けた髪は、フードと擦れたせいで元の銀色が所々見えていた。
さらに髪についた煤を手で払い、銀に黒が混じった月色の髪を少女によく見せた。
「え……」
少女の目がまるくなった。
「もしかして、リーフ……なの?」
その言葉に、リーフもまた目を見開く。
「どうして、ボクの名前を?」
「リーフよね、そうよ、リーフよ! 私のこと覚えてないの、ドロリスよ、私はドロリスよ!」
少女はリーフに縋り付いた。少女の虚弱そうな見た目と違わず手足は棒のように細く、背丈はリーフの胸元にやっと届くくらいしかなかった。
リーフは女らしからぬ背の高さだが、それでも男と比較すると小柄な部類に入る。
そのリーフが胸元に飛び込んできた少女を真上から見下ろし、後頭部に二房の黒髪を見つけられるということは、かなり小柄だ。
「ねえ、まさか、知り合い?」
リンは少女の頭をちょいちょいと指差した。リーフが許すならば、今すぐ少女を階段に突き飛ばして偶然にも転落死を装いそうな顔をしていた。
リーフは首を少し傾げた後、軽く首を横に振った。音を立てずにリンが舌打ちする。
表情には一切出さなかったが、リーフは内心ではかなり混乱していた。
リーフという名を知っているのは革新派とリンのみ、しかも革新派で素顔を知っている者は死に絶えた今、その名を呼ぶ者はいなくなった筈だった。
だが、このドロリスという少女は顔を見ただけで言い当ててみせた。それに、彼女は絶えてしまった筈の教皇の――半獣の血統を受け継いでいるように見える。
「どうして、君は……」
「ああ本当に夢みたい! リーフが私を助けにきてくれたなんて、ここから出られるなんて!」
ドロリスはリーフにしがみついたままうわごとのように言葉を紡ぎ、とても会話ができるような状態ではなかった。
リーフには確認したいことが山程あったというのに。
埒が明かないので、リーフは仕方なくドロリスの肩にそっと手を置き、できるだけ優しく引き離した。
「ここに留まるのは危険だ。早く行こう」
「え、ええ、ええ! そうね、早く帰ろう!」
ドロリスの手を引き、リーフは階下へと降りた。その後ろを、面白くなさそうな顔でリンが続いた。
「ねえリーフ、リーフが無事ってことはセイラもいるのよね。セイラはどこにいるの、私たのしみ!」
階段を下りていく途中でも、ドロリスの独り言は続いた。
「ずっと待ってた。ずっとずっとずっとずっと待ってた。もう誰もこないんじゃないかって。カルファやリュドも来てくれないかもって怖かったの」
時々、その内容に気になる点がいくつかあったが、途切れることのない言葉にリーフが口を挟む隙は全くなかった。
「怖かったわ、みんなから引き離されてずっとずっとずっと一人だったもの、怖いことや痛いことがあると、リーフに助けにきてほしいって思っていたわ。だから本当に嬉しいの、リーフが来てくれたことが。ねえ、本当よ」
監獄棟から出る一歩手前で、リーフが急に立ち止まった。
立ち止まるのが遅れて半歩前に出たドロリスの肩を掴んで、強引に後ろへとさがらせる。
「どうやら、もうボクらのことは知れ渡っているみたいだ」
「どうしたの?」
ドロリスはリーフの言葉にぴんとこなかったようで、背伸びをして前を覗こうとした。さらに後ろに押し込んで留めた。
「数は?」
リンは長銃の機関部を開き、弾が装填済みであることを確認した。
リーフ程に特化した感覚は持っていないが、リンとて戦いで飯を食っていた身である。壁越しに剣呑な雰囲気を勘付くことは容易かった。
「後衛だけで三十、いやそれ以上。前衛も含めると百超え。罠を警戒しているのか、門の外で待ち構えている」
リーフは壁越しに兵の配置を読み取り、事前に決めていた手信号でリンに布陣を伝えた。
リーフの持つ特異な感覚――〈害覚〉は、相手がこちらに抱いている敵意を感じ取ることができる。精度も高く、分厚い石壁に囲まれていても、櫓の上に立っているかの如く敵の位置を把握していた。
「結構開けた場所だったよねー。跳弾は心配しなくていいけど、バラけられるとちょっと面倒かも」
リンはひとまず長銃を小脇に抱えると、昨日買ったばかりの陶器の瓶を取り出した。蝋で固められた栓を瓶の中に落とし込み、押し固めた綿を瓶の口に詰めた。
――なぁ、次は俺を出させろよ。乱戦なら任せとけ。
リーフの意識の表層をギルの声が撫でた。久々の戦いの気配に、少し語尾に高ぶりが垣間見えた。
「別にいいけれど、リンと喧嘩はしないように」
――そーいうのは向こうに言ってくれねぇか。
「分かってるわよ、それぐらい。骨董品のくせに一言多い」
リンは少しむくれながら、腰に提げた火口箱から火打ちを取り出した。
「ね、ねぇ、一体――」
まだ状況が理解できていない様子で、ドロリスはリーフの外套の袖を引っ張った。
リーフは無言でドロリスの手を振り払うと、有無を言わせず槍を押し付けた。
「下がってな、お嬢ちゃん」
リーフは口の左端を釣り上げて笑うと、背の魔剣に手をかけた。
リンが瓶の口に火を点けた。
「仕事しろよ、クソ狼」
「言われなくてもやってやるっての」
扉の隙間から豪速球で放り投げられた瓶に続いて、リーフが外に飛び出した。
目視で確認した相手の布陣は地上に軽歩兵と銃士の一団、左右の高台に支援の銃士隊、後詰には重歩兵隊――リーフが読んだ通りだった。
抜き放たれた魔剣が一番手前の騎士を盾ごと両断、同時に火炎瓶が遠く離れた地上の銃士隊の真ん中に命中、どよめきが広がった。
間髪入れずにさらに火炎瓶が飛来、魔剣の一閃で三人纏めて薙ぎ払われる。
炎の赤と、血の朱が夜闇を鮮やかに彩った。
「怯むな、行けい!」
布陣の後方で、指揮官と思しき男が一喝した。磨きぬかれた紋章入りの鎧を纏い、業物と思しき剣を腰に携えていることから高位の騎士であることが分かる。
既に逃げ腰になっていた前衛は指揮官の声に再び奮い立ったが、轟く銃声と共に指揮官の頭の半分が吹き飛んだ。
「暗いからって油断しすぎ」
難度の高い夜の狙撃を事も無げに行い、リンは呟いた。
続けて炎にまかれて混乱状態の銃士隊に向けて適当に銃弾を放ち、リンは慣れた手つきで次弾を装填した。一発の銃声で複数の人影が倒れていった。
モンスターの防弾性に優れた皮や鉄のような甲殻を破壊できるよう、対モンスター弾は貫通力に重点が置かれている。勿論、破壊力も折り紙つきだ。
中央部ではそれを対人戦に転用し、装甲車や重武装兵の駆逐に用いているというえぐい噂もある。
身に纏える程度の薄い鋼や持ち運べる防壁など、人を蹂躙する獣を狩る武器の前では紙も同然、縦列を纏めて貫くことも容易かった。
指揮官を討ち取られたことで、騎士団の混乱は加速した。最も前衛に近い銃士隊は完全に麻痺、他の銃士隊も狼狽えている者が多い。
派手に暴れ回るリーフに惑わされずリンの方を狙う者もいたが、リンも安易に外に顔を出す馬鹿ではない。
その間にも、魔剣によって前衛の数は瞬く間に減っていった。銃士隊がうかつに攻撃できないよう、巧みに兵との間合いを詰めては斬り捨て、時に壁としてまだ息のある者を前に押し出しては纏めて両断。
そのくせ、リンの射線上には立たず後方支援にも抜かりはない。
たかが一人の剣士、然れど魔剣を携えた魔戦士は時に一騎当千の活躍をする。
リーフの外套が血を吸い、暗い色に染まりつつある頃、前衛の最後の一人の頭が宙を舞った。
残るは、リンの狙撃で徐々に数を減らしつつある二つの銃士隊と、遥か後方で未だに静観を続けている重装の近衛騎士だけだった。
リーフの周囲にはもう敵がいない、となれば銃士隊の狙いは一点へと定まる。
そうなることを見越し、リーフは近衛に向かって疾走した。
――弾はテメェに任せた。
ギルは身体の支配をあっさりとリーフへと返し、意識の片隅へと引っ込んだ。
リーフは背中に十数の殺意を感じた。銃弾が放たれるまで猶予はない。
絶え間ない炸裂音と共に銃弾の雨が地面を穿った。リーフの背中にも数発命中し、重たい衝撃と共に外套を引き裂いた。
だが、弾丸は皮膚の表面を滑って弾かれた。着弾の瞬間、外套の下でリーフの肌が白い鱗状に変化していることに気付く者はいない。
リーフに流れる守りに秀でた神獣の血の力の前には、唯の鉛玉など豆鉄砲の威力しかない。
着弾の衝撃に耐えながら、リーフは近衛騎士の中央に魔剣を振りかぶり突進し――転倒した。
「――っが」
左足を貫く激痛、続いて両腕から熱い血潮が噴き出した。
自らの血で赤く染まる視界の中、リーフは腕にくいこんだ鋼の牙を気力を振り絞って睨みつけた。
リーフの両腕と左足にそれぞれ食らいついているのは、獣の頭を模したトラバサミだった。黒光りする牙に歯車の毛並み、目玉はおぞましいまでに白い呪具の玉、喉を飾る剃刀のような刃物。
首から下は無く、鎖が繋がっていた。
――っ、このくそったれが! ここまで質の悪ぃクソ魔剣は久しぶりだぜ!
ギルの悪態が響いた。
トラバサミは魔剣だった。しかも、神殺しと騒動霊を混合している。
神殺しによる高い攻撃力と騒動霊の機動性能を合理的に活用した形だが、そんな配合をして騒動霊が蝕まれないわけがなく、正気を完全に失っていた。
ただ近くの命を貪ることに特化したケダモノであり、誰にも制御できない。
弾丸に紛れて弩で打ち出された魔剣は、飛び道具の威力を軽視していたリーフに致命的な一撃を与えていた。
リーフは自分の油断を呪った。殆ど潰えたとはいえ、嘗ては本物の神がいた地だ。強力な魔剣を上層部が未だ保有している可能性を血統が絶えたことを理由に甘く見ていた。
「代々の教皇に伝わる神の御霊をも食らう魔剣です。封を解いて正解でしたね」
震えた女の声がした。
リーフは声の方を見ようとしたが、両腕の肉を引き裂かれる激痛の中ではそれすら叶わなかった。
声の主はリーフへと歩み寄った。
「触……るな」
視界の隅に見えた細い指に、リーフは唸った。
しかし、指はリーフの意に反して血に濡れた髪に触れた。
「シルヴィア……どうして、あなたは、嗚呼……」
掌がリーフの顔を包み、ゆっくりと持ち上げた。ようやくリーフの視界の中に相手の顔が入った。
銀の長髪に一筋だけ暗い色を流した、美しい女性だった。だが、女の盛りを過ぎた肌にはどこか張りがなく、飾り立てた美しさに陰りが見え始めていた。
リーフの顔を映す深い緑の瞳は何処か虚ろで、涙を目尻に溢れそうなほど貯めていた。
リーフが最後に彼女の顔を見たときに負っていた深い悲しみは、まだ彼女を蝕んでいるようだった。
リーフの養い親にして敬月教の最高権力者である教皇は、リーフの顔を悲しげに見つめていた。
「嗚呼……どうして、変わってしまったの。私は、私は血は繋がっていなくても貴女を愛していたのにっ。お願い……だから、この仕打ちを嘘だと言って……」
その言葉に、リーフは聞き覚えがあった。聖都から脱出する前、もう一人の殺し屋と共に騎士たちに組み伏せられたリーフにも同じ言葉がかけられていた。
その時には、リーフが返す前に引き離され、そのまま軟禁された。
だから、リーフはその時言おうとしていた言葉を紡いだ。
「嘘……だと、したら」
「え?」
「嘘、だったら……私は、救われ、ますか……そんな、ものは、救い、ではない……何も、変わら、ない」
止まらない出血と激痛で朦朧とする意識の中、リーフは一言一言を噛み締めた。
リーフの脳裏には十一年に渡るこの国で過ごした記憶がよぎった。
周りから一方的に後継者の『器』として期待され、同時に下賤の生まれと蔑まれる毎日。いつの間にか敵意のどぶのような味が分かるようになってから、それが途切れる日はなかった。
たった二人を除いて、常に敵意を与えられる環境で人形として扱われ、とっくに彼女は正気を失っていたのかもしれない。
それでも、荒んだ感情が渦巻く日常の中で、彼女の心は敵意を超える何か素晴らしい感情を欲していた。
もしかしたら、それは『愛』というもので、誰かを今度こそ守りきれたなら手に入るのではないか、敵しか知らない自分でも感じることができるのではないかと思った。
だからこそ、利用されていると分かりながらも、革新派に身を沈めたのだ。その先は間違いなく死だったが、それが役に立つのであればそれでよかった。
死の先に『愛』があればよかったのだ。
しかし、その全ては無駄に終わってしまった。
結局、彼女のせいで仲間は全員無惨な死体に変わり、その数倍の敵の死体の山を築いて、敵意と憎悪を煽り立てて、結局何も果たすことができなかった。
絶望と言えるほど希望を抱いていたわけではないが、もう彼女一人で変えられる運命は残っていなかった。
この状況下で、命乞いができるほど、彼女は善性を信じていなかった。
「全部……本当です、お母様」
苦痛に歯を食いしばりながらリーフが告げた言葉には、どうしようもない拒絶が滲んでいた。
教皇の顔から表情が抜け落ちた。
教皇の手から力が抜け、リーフは頭を地面にぶつけた。衝撃が傷口に響いてリーフの口から呻き声が漏れた。
「リーフッ!」
少女の金切り声が響いた。
ドロリスが倒れたリーフの側へと駆け寄っていった。
さすがのリンも、戦闘の片手間にドロリスの暴走を食い止めることは無理だったようで、苦い顔をして扉の隙間を限界まで閉ざして籠城の構えをとった。前衛がやられた状態では時間稼ぎにしかならないが、それが現状の最善の選択肢だった。
騎士たちは監獄から飛び出してきた少女の、月の色をした髪を見て唖然としたまま誰も状況が理解出来ずに動けなかった。
「あなた、一体」
「リーフ! お願い、死なないでっ!」
ドロリスは教皇になど目もくれず、地面に倒れ伏したリーフの側に膝をついた。
重傷のリーフの身体を揺すり、ドロリスは涙を流した。
リーフは揺すられて広がる傷口に、呻き声をあげること以外できなかった。長時間の出血に、顔の血の気も失い始めていた。
◆ ◆ ◆
「あん畜生め……」
籠城中のリンの口から本日一番の殺気が篭った台詞が零れた。
遠くから見守るしかないリンとしてはドロリスの頭をぶち抜きたい衝動に駆られたが、的がリーフに近すぎるため安易に狙うことができない。
――あのー、リンさんお願いですから早まった真似は……
「分かってるわよ、それくらい」
ドロリスにほっぽり出されて床の上に転がるイーハンの忠告に、リンは不機嫌そうに返した。此処で外に出れば、部外者である彼女は間違いなく蜂の巣にされてしまう。
今、五体満足で動けるのはリンだけなのだ。
感情的に動くよりも、あるのかないのか分からない奇跡に賭ける方が勝算があるのは正直癪だったが、その時を待つより他はない。
女の勘、と言うより他にないが、リンには不思議と奇跡が起こる確信があった。