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作者: 草上アケミ
残酷な描写あり R-15
天使が死んで、生まれた日(3)
 治安の良い聖都にも、寂れた区画が存在した。

 正門区から南へと向かった先の、住居が密集した南聖徒区の更に奥、石を積まれ塗り固められて塞がった門の跡が残る区画だ。
 旧教区と呼ばれる、二百年前までは聖都の中心として機能していた場所である。

 かつては栄えていたが、都市機能の拡充のために遺棄され、今では多くの異端派や異国からの流れ者、或いは訳あって聖徒区から追われた人々の住むスラムと化していた。
 今は革新派との暴動で教会騎士によって一掃され、住民は殆ど外に見えなかった。

 二人が宿泊していた正門区からは遠く離れていたために、リンも旧教区の存在には当初気付かなかった。

 正門区の整備された煉瓦の町並みとは異なり、石造りの建物が並んでいた。
 泥のたまった道に敷かれた石畳は緻密な模様を維持しており、小さな隙間から雑草が少しだけ伸びていた。崩れることなく古びた家々の外壁は長年風雨に晒されてすっかり色褪せ、ドアの壊れた廃屋も目立った。

 人と生活感だけが抜け落ちた石だけの町だった。植物がびこることすら許さないきゅうくつさに、昔の人は嫌気が差して離れてしまったのだろう。

 ガス灯のない黄昏時の通りは不安をかき立てる程に薄暗く、リンは警戒心を募らせた。
 まだ修道女のふりをしているため武器は鞄の中に仕舞っている。奇襲には対応しきれない可能性があった。

 しかし、リーフは勝手知ったる様子で、通りを奥へ奥へと進んでいった。

 迷路のような狭い路地を抜け、裏通りを進んだ先には古い教会が建っていた。
 周囲の建物と同様に外壁は荒れ放題で、雨どいから流れ落ちたかびさびが黒く地面まで垂れていた。
 取り壊されたのか、それとも取り外されたのか、高所の窓には硝子もない。低所の窓は板を打ち付けられて塞がれている。
 信徒達を受け入れるための大きな扉にも板と杭が打たれ、その上から何重にも鎖をかけられていた。

 それだけを見れば只のうち捨てられた教会だった。

 だが、リンは其処に何かがいることに気付いていた。この世界には息をしなくても数百年存在できる思念があると分かっているからこそ、の臭いを感じた。

 この教会は意図的に外部から隔絶されている、とリンは確信した。
 誰かが中に入り込まないように、何かが外に出ないように。

「待って」

 リンの静止に、リーフは立ち止まって振り返った。

「何か、この建物って気味が悪いっていうか気持ち悪い気がするんだけど」
「それはそうだろう、此処には魔剣が封印されているから」

 リーフは背中の魔剣ギルスムニルを抜き放つと、扉を戒めていた板と鎖をまとめて叩き斬った。

  ばんっ!

 鎖が切れただけで、教会の扉が勢いよく外へと開いた。リンは半歩後ずさり、いつもならホルスターのある右腰に反射的に手を伸ばしていた。

――行動がいちいち煩ぇな、騒動霊ポルターか?
「今日は察しがいいね」

 突然開いた扉に驚くこともなく、リーフは魔剣を携えたまま教会の中へと入った。

 一瞬ためったが、リンもその後に続いた。

 教会の礼拝堂の中は、がらんとしてとても寒々しかった。
 本来なら、長椅子が整然と扉から祭壇までの間を埋めているのだが、重たい筈のそれらは一切撤去され、枯れ葉と埃が無秩序に散乱していた。

 表と同様に低い窓は塞がれ、高所の窓には硝子がなく、空っぽだった。
 祭壇の後ろに控える大窓の下には硝子の破片が散乱しており、ステンドグラスを叩き壊したうえで塞いだのがありありと見て取れた。信仰の場所として屈辱的な仕打ちを受である。

 大窓が塞がれることで、教会の中で最も明るい場所であるはずの祭壇が、暗く陰気な場所に仕立て上げられていた。

 リンは、大窓を覆う木材のうち右下の板が剥がれかけていることに気付いた。近づいてえいやっとめくると、人一人が通れるくらいの穴が開いた。

「もしかして、ここ剥がしたのってリーフ?」

 穴を指差し、リンはリーフの背中に問いかけた。
 リーフは、祭壇の死角にある錆び付いた鉄の扉を開けようと力一杯引っ張っていた。

「そうだよ、ボクが中央区から逃げ出すときに開けた。無闇に覗き込まない方がいい、裏は低地なうえに真下は墓石だ」

 リーフの忠告に、穴に近づき身を乗り出そうとしていたリンは、一瞬固まった後、前のめりにならないように注意しながらそっと外を覗いた。

 教会の裏は小さな墓所になっていた。廃墟となった町の様子と同様に、石を過剰に敷き詰めた墓所だった。
 言われた通りリンが覗いている真下には墓石が建っていた。頭から落ちれば、間違いなく頭蓋をかち割られてしまうだろう。

 背後から聞こえたずしん、という重たい音に、リンは穴から頭を引っ込めた。

 思い通りに動かない錆び付いた扉に業を煮やしたリーフが、魔剣で扉を破壊していた。
 扉の向こう側は、地下へと続く階段がのびていた。どことなく嫌な空気が、階段の奥から漂っていた。

――この先だな。
「下に降りるよ」

 リーフは魔剣を背負い直し、扉の残骸を越えて階段を降りていった。リンもその後に続く。

 それほど長くない階段の終点は、地下墓所だった。

 半地下であるらしく、天井付近には鉄格子の嵌められた明かり取りの窓があった。
 そのおかげで灯りをつけなくとも、日没間近の頼りない光を頼りになんとか室内の様子を確認することができた。

 壁は一面タイルで装飾され、部屋の中央には棺が安置されていた。棺のその奥には、馬に乗った男性の彫刻が、本物の短槍を小脇に抱えた形で飾られていた。
 それなりに歴史のある彫像なのだろうが、見る影もなく汚れがこびりついてしまっている。

 一部の汚れは長年降り積もった埃と、窓から吹き込んだ泥だ。
 その他の大半は、乾いた血痕と肉片だった。
 彫像の足下を見れば、干からびた小動物が積み重ねられていた。まるで誰かが彫像に動物の死体をぶつけたようだった。

 中々気味が悪い光景だったが、リンには魔剣の仕業だろうとすぐに想像がついた。
 おそらく、彫像が抱え込んでいる槍が魔剣なのだろう。餌として、外から小動物を引き込んでいたようだ。

「久しぶりだね、イーハン」

 リーフは、槍に向かって声を掛けた。
 その瞬間、辺りに漂っていた陰気な空気が吹き飛んだ。

――ああ、誰かと思えばリーフさんでしたか。

 弱々しい男の声が、短槍のある方向から聞こえた。

「契約通り、助けにきた」
――本当に、本当に僕も外へ出られるんですね!

 喜びを噛み締め、像に埋もれた槍は僅かに震えて埃を立てた。

「リーフ、こいつは何?」
「魔剣イルハールス、歴代の教皇にひとときの自由を与えてくれていた、隠し通路の番人だよ。尤も、ここ百年は神の血も薄れて、契約者がいなくなってしまっていたけれどね。今はボクと契約している」
「それで此処が封鎖されていたわけね」

 リンはようやく納得がいった。
 魔剣を単に武器として扱うならば、理論的には誰にでもできる。しかし、複雑な意思疎通をするためには――特に騒動霊の場合は――魔戦士タクシディードである必要がある。

 例えこの道の存在を知る者がいたとしても、魔戦士でなければ入り口を開く鍵すら見つけられず、契約していない魔戦士にも道は開かれないだろう。同系統の魔剣なら、こじ開けられる可能性はあるが。

 教皇の家系が魔戦士であるからこそ可能な、安全な通路だ。

 その血が殆ど絶えてしまった現在、誰にも通ることができなくなったため、簡単に封鎖して放置してあった。それが皮肉にも、教皇に反旗をひるがえしたリーフに発見されたのである。

――おい、テメェ俺とだけ契約してたんじゃねぇのかよ。

 ギルが唸り声をあげた。地の底から這いずり出てきた亡者のえんすらかすむ迫力だった。

「いつボクがそんなことを言った。君と契約するために、ボクの遍歴を全てつまびらかにする必要があったのかい」

 リーフは涼しい顔で言い返した。

――……別にぃ、俺もそんな心狭くねぇしぃ……

 そこまで言われれば、ギルは引き下がるしかなかった。

「イーハン、道を開いてほしい。そうすれば君を戒めから解放してあげよう。そこで君と結んだ契約は終わりだ」
――分かりました。

 言うが早いか、かちりと音がして壁の一部が窪んだ。
 リンが窪んだ場所を軽く手で押すと、抵抗なく壁は下がり、ぽっかりと空洞が見えた。

 リーフは魔剣ギルを抜き、彫刻に向かって二度振り下ろした。
 聖人の彫刻の腕と馬の頭の一部が切り落とされ、短槍は棺の上に転がった。リーフが死骸に塗れた短槍を拾い上げた。

「もう少し、この先も付き合ってくれないかな」
――また契約をするのなら、いいですよ。

――おい、俺との契約は忘れてねぇよな?
――ひぇっ!?

 当然の権利とばかりにギルが口を挟んだ。不機嫌は絶賛継続中である。
 イーハンはギルに敵意を向けられただけですっかり縮み上がってしまった。

――いえいえいえいえ、そそそそそんなことしませんよ!

「リンと契約すればいい」
「ええー」

 リンは反射的に嫌な顔をした。騒動霊ポルター憑依霊デモニアより契約者の負担が軽いことを聞かされていたが、それでも契約に対する忌避感はまだ残っていた。

「イーハンが望むのは、十分な食事だよ。仕事終わりに動物でもモンスターでも、それこそ人間の血肉でも与えておけばいい」
――ええ、僕はお腹がいっぱいなれば満足です。

 意思が強く残っている魔剣は、契約で魔戦士との妥協点を見出すか、封印具の類で押さえつけなければ言うことを聞かない場合が多い。

 ギルのように半ば投げやりで契約するのも珍しいが、目的自体が単純な魔剣はもっと珍しかった。

「お手軽だね」
「それに、ギルと違ってそんなに強力な魔剣じゃあない」
――だろうな。さっきも、表は開けれたが鉄の扉は開けれなかったみてぇだし。

 木製の扉を開けることはできたが、錆びついた重い鉄の扉を開ける程の力はなかった。強力なものになると家一つを震わせる力を有する騒動霊の中では、イーハンは特別強いわけではなさそうだ。

――確かにそうですけど、お腹が減っていたせいでもあるんですってば。
「取り敢えず、今日の手伝い分として鶏三羽でどう? 追加でもしかしたら人間の一人や二人いっちゃうかもしれないけど」
――最高です! ぜひお伴させてください!

 リンが契約の手始めとして報酬を提示すると、イーハンはすぐにのった。さりげなく敵の命も勘定に入れているが、リンの中では敵は人ではないので良心はちっとも傷まなかった。

――こんな単純で大丈夫か?

 ギルが少し心配そうにリーフに言った。

「これくらいの方がリンも割り切りやすいし、良い組み合わせだと思うけれど」

 そう言いながら、リーフは魔剣のベルトを外し、リンから借りた上着を脱ぎ始めた。


◇ ◆ ◇


 日はすっかり落ち、空には半月が昇っていた。

 正門区はガス灯こそ道を照らしているものの、すっかり人はいなくなってしまっていた。ガス灯は犯罪抑止として整備されているだけで、夜間に開いている店は少ないのだ。

 しかし夜になっても、大聖堂の奥に控える中央区とミナス城で人気ひとけが絶えることはない。
 大聖堂裏の中央区入り口には、昼間と変わらず教会騎士が立っていた。ミナス城の中も同様で、要所毎に警備が敷かれている。

 長年ミナス城で暮らしていたリーフは、中央区の地理も警備の手薄な地点も全て頭に入れていた。
 無論、二ヶ月の間に警備の見直しは行われていたが、詰め所の位置関係等からどうしても手薄な場所はできてしまう。

 その穴を埋めるための警報トラップもイーハンの力で十分無力化できるものが大半で、特に苦難もなく二人はミナス城から中央区へと出た。

 二人は、中央区の隅にある監獄棟へと向かった。
 其処には、捕えられた革新派が収容されている。今までのリーフの行動は、一重ひとえに捕まった同志を救い出すためだった。

 高い壁に囲まれた監獄棟の門の前には、見張りが二人立っていた。

 しかし、リーフは物陰に隠れながらも、躊躇いなく見張りに近づいていった。

 侵入する前に着替え、今の格好は普段通りの漆黒の外套姿だ。フードで表情を隠し、武装もいつも通り、片手剣と魔剣を装備していた。
 闇夜に紛れやすい色ではあるが、それでもやはり距離が詰まると見張りもリーフの存在に気付いた。

 見張りは近づいてくる人影に銃剣を向けた。リーフは一旦立ち止まり、観察する猶予を与えた。

「何者っ……お、おい」
「嘘だろ……おまえ、あの死神」

 リーフの姿に動揺した見張り二名に、リーフはその場で朱い燐光を纏った魔剣ギルを抜いた。

 圧倒的な速さで振り抜かれた朱の斬撃に一拍子遅れて、離れた場所にいた見張り達は無傷のまま崩れ落ちた。傷はないが、もう二度と立ち上がることはないだろう。

――どうだ?
「ほんの少しだけど、反動がある。制御がまだ難しい」

 リーフの腕にはしびれる感覚が残っていた。

――その程度で済むんなら上出来だっつの。

 リーフの放った一撃には、ギルの構成した神性術が込められていた。それを直に食らった見張り達は、即座に息の根を止められてしまったのである。

 本来、その力は、ギルが完全に憑依した状態でなければ扱えない。それでも契約者を著しく消耗させ、人としての寿命を縮めてしまうものだ。

 しかし、以前の狩人との戦いの最中、リーフの耐久性を目の当たりにしたギルは、力を一部預けても大丈夫だろうと判断を下した。
 その予想は裏切られることなく、リーフは少し顔をしかめる程度で能力の使用に耐えていた。

「行くよ」

 リーフはリンに向かって手で合図を送った。リンはイーハンを投げて寄越し、リーフはイーハンの魔剣の力で門の鍵を静かに開けた。
 まだ温かい死体を門の中に蹴り転がし、監獄棟へと進む。

 その後ろを、リンが警戒しながら続いた。動き辛い修道女の服を脱ぎ捨て、革の上着にズボンという、こちらも普段通りの格好になっていた。

 二人は監獄の出入り口を含めた何重にも閉ざされた扉の鍵も開け、中へと入り込んだ。看守は気付くまえに血溜まりに沈んだ。

 人を無闇に立ち入らせない場所であるからして、中に火は灯っていない。リンは自前のランプに火を点けた。

 監獄棟の一階は、鉄格子のめられた集団牢が並んでいた。
 囚人達は五、六人で纏められて一つの牢に収容されており、看守以外の訪問者に一瞬どよめきが走った。

 一人の囚人が、鉄格子に縋りつく。

「なあ、おい! 助けて」

 くれ、と言い終わらないうちに、リーフは騒がしい囚人の喉を剣で突いて即座に黙らせた。
 他の囚人達は即座にその意味を悟り、リーフが牢を一つ一つ覗いていく間、一言も喋らずに大人しくしていた。

 一階を全て見て回ったが、リーフは黙って首を振り二階へと上っていった。
 二階は鉄の扉で閉ざされた個人牢が延々と続いていた。

 その中で、リーフはようやくかつての仲間を見つけた。

 たった一人だけ、個人牢の片隅で忘れ去られたように佇んでいたその男は、驚くべきことに無傷だった。

 手足には拷問の跡もなく、手荒な真似は一切受けていなかった。

 本当に、それは奇跡と呼べる確率なのだろう。

 看守からも忘れ去られ、僅かな糧すら与えられず餓死した男は、腐臭の漂う死体と化していた。
 男の口には蛆が湧き、皮膚は変色して床と接している箇所からねっとりとした液体が染み出ていた。

「うへえ、これ昨日今日死んだんじゃないよ。もうひとつきくらい経ってる」

 リーフが死体の顔を確認している間、臭いに耐えかねたリンは鼻をつまんでいた。

「分かるのかい?」
「モンスターの繁殖期なんかは、迎撃が忙し過ぎて味方の埋葬が十日遅れとかたまにあったし。それの数倍酷いからそれぐらい経ってるんじゃない? ていうか、この臭いによく耐えられるわね」
「単純に鼻を塞げないだけなのだけれど」

 リーフは死体の懐を探り、遺品になりそうなものを探していた。だが、牢に入る前に全て没収されてしまっていたようで、めぼしい物は何も持っていなかった。

 服の切れ端か髪の一束でも切り取れればよかったのだが、生憎死体の彼は短髪で、服も死臭と脂が染み付いてとても持って帰れるものではなかった。

「この様子だと、他の人間が生きているのも絶望的だろうね」

 グローブを嵌めた手をはたいて、リーフは立ち上がった。

 リーフが新聞で調べた限り、公的に処刑されたのは革新派のリーダーと幹部クラス、そして雇われていた二人の殺し屋のみだった。
 殺し屋のうち、シルヴィアを襲撃した主犯は罪の重さから晒し首にされたと報道されていた。
 殺し屋の一人はまだ生きていて、こうして死体を漁っていたが。

 しかし、監獄の現状を見ると、捕まった者達は一人残らず殺されてしまった可能性が高かった。

 この場所で孤独に息を引き取った男でさえ、革新派の下っ端の下っ端と言って良い程の地位だったのだ。それより上の連中が生きているとは到底思えなかった。
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