残酷な描写あり
R-15
十二番目の悪魔(1)
「未だ動きを見せず、か」
近衛騎士団副団長ジェイムズ・チェクルスはガントレットを着けた両腕を組んで唸った。
しかつめらしく凄みのある兄や実力の割に自信がなさそうな弟とは異なり、彼は精悍な顔立ちで女性に受けがよかった。しかし、今はやつれて覇気のない顔をしていた。
揺すりをかけた異端派の小教会から不審な人物の情報を得たのが三日前、そして不審者が出入りする場所を突き止めたのが今日のことだった。
近衛騎士団は即座に出動し、発見地点から最寄りの廃教会を拠点とした。
旧教区の廃教会は普段の寂れた様子から一変し、教会騎士が大勢詰め寄せていた。
礼拝堂では騎士達が休憩や武具の手入れを行い、鐘を外された屋上の鐘楼は物見に、裏手の書斎は各指揮官達の作戦会議室と化していた。
使われなくなって久しい教会の中には家具が殆ど残っていなかった。司祭が引き払ったのか、それとも旧教区のならずもの達がせっせと運びだしたのか、地下の聖像すら打ち壊されて宝飾品を取り払われていた。
そのため、聖都内部であるのにわざわざ野営設備を運び入れる羽目になった。
「こちらに勘付いているのやもしれません」
会議に参加しているジェイムズの部下が進言した。
「隙を見て逃げる算段をつけているのでは」
「城壁内の構造図はまだ見つかっていないのか」
「枢機卿猊下より許可を賜ったので、宝物庫や教皇聖下の書庫を捜索しているのですが、未だそれらしいものは見つかっておりません」
次々と報告がなされるが、どれも大した進展はみられなかった。
ジェイムズは苦い顔で、卓の上に広げられた複数の地図に目を向けた。
周辺の詳細な地図や古い水路の配管図、城壁外の地形を描いたものが数点。どれも教会の技術で正確に測定して製図されたもので、地形情報に狂いはない――唯一つ、騎士達が監視している場所が書き込まれていないということを除いて。
敵と思しき相手の所在が分かっているというのに、近衛騎士団が攻めあぐねているのは潜伏先に問題があった。
目撃者によると、不審な黒髪の女は城壁沿いを歩き、長らく失われていた筈の監視塔の中に入っていったという。
誰も気が付かなかった扉を開けた姿を見て、異端の小教会ではあるが、それでも敬虔な敬月教信者を自称する彼らも大変驚いていた。
監視塔の内部には市民の避難所や伝書鳩の飼育部屋、そしてモンスターに対抗するための武器が蓄えられた武器庫等、文字通り最後の砦として機能する設備があると言い伝えられている。
しかし、城壁内への入り口は百年以上前に失われていた。
壊された訳でも、鍵がなくなって閉ざされたままという訳でもない。ただ、誰もが何処に扉が存在するのかという記憶と記録を忘れてしまったのである。そして、今日に至るまで扉があったということを知っていても、見たものは誰も存在していなかった。
明かり取りの窓や排水、換気口といった外部に繋がる部分を探し、他の監視塔から城壁伝いに上から入ろうとしても、誰にも出入り口を見つけることができなかった。
城壁を壊してでも中に眠る遺産を発掘するべきだ、という過激な主張をする者もいた。だが、反対に押されて実現されず、そもそも神の加護を受けた白亜の城壁にはどんな槌や鑿も弾かれてしまうだけだった。
何故その女が扉の場所を知っていたのかは分からないが――近衛騎士団の半数は大方事情を察していたが――構造が不明の建築物に闇雲に突撃するわけにもいかなかった。
「副団長、ここは逐次小隊を出して攻めるべきかと。内部に抜け道がある可能性が捨てきれない以上、取り逃がしを防ぐには攻めるしかないのでは」
膠着状態に焦れた一人の騎士が進言した。それに他の騎士達も同調するような素振りをみせた。
教皇聖下の崩御から既に七日が経ち、市井にも噂と動揺が広がりつつある中、騎士達にも焦りが見えていた。
「いや、向こうが今更慌てて動くとは思えません。逃げるのならとっくに聖都からいなくなっている。そして、今も抜け出そうという様子はない」
ジェイムズもその言葉に首肯しようとしたとき、横から待ったがかかった。
作戦会議室の入り口に若い騎士が立っていた。
栗色の髪に鳶色の眼をした頼りなさげな風貌。黒い制服の上から軽い革鎧と大振りな籠手という装いに、腰には紅玉が埋め込まれた黒い柄の両手剣を携えている。
「遅くなりました、副団長殿」
騎士はジェイムズに敬礼した。
「ガルドか」
声の主は、ガイエラフ・チェクルス――ジェイムズの弟にして聖剣の使い手である教会騎士だった。
現状をジェイムズの配下の騎士がもう一度ガルドに内容をかいつまんで説明した。
それを聞いてから、ガルドは改めて提案した。
「おそらく、用意周到に罠をめぐらせ、こちらの出方を伺っていると考えるべきです。魔剣を所持している可能性もあります。構造図が発見されるまで動かない方が得策です」
ガルドの一方的な主張に、ジェイムズの部下達は眉根を寄せた。
「お言葉ですが、今日から現場入りした貴殿はご存知ないかもしれませんが、不審な女が運んでいたのは僅かな物資。とても籠城するには足りません」
「監視塔には食料以外の守りの叡智と武装がある、という言い伝えはよく知られた話だと思っていましたが」
「数百年も前のものが使い物になるわけがない」
「この聖剣は建国当初から存在していました。幾度か宝物庫で封印されていたこともあったが、未だ錆の一つも浮いていない。そのような物品が唯一と考えるのは早計では」
頑として主張を曲げないガルドに、場の空気が悪くなっていった。
ガルドはこの場で最も若輩で、騎士としての経験も浅い。しかし、彼には第十二騎士隊副隊長という地位と聖剣を駆る技量があった。本来なら、年上とはいえ位の低い騎士が軽々しく意見することなどあってはならないことだ。
しかし、その場にいた騎士達は悉くガルドの意見に難色を示していた。ジェイムズもそれを諫めなかった。
「例え罠があったとして、このまま手をこまねいている訳にもいかない。先遣隊を組織しろ」
「それならば、私も同行します」
「いや、ガイエラフ殿は現状動ける唯一の聖剣使いだ。罠の危険があるなら尚更待機していてほしい。罠の有無が確認出来次第、私が陣頭指揮を執る」
ジェイムズが下した決断に、ガルドの顔が曇った。
「ジェイムズ兄さん、手を抜くことを懸念しているのなら筋違いだ。そうであるなら、俺はとっくに聖剣を置いている」
力説するガルドの手は、自然と聖剣の黒い柄に触れていた。
「疑ってなどいない。指揮に従えと言っているだけだ、いいな。部隊の編成は――」
ジェイムズはガルドの顔を見ずに、部下達へ指示をとばした。
部下達はすぐさま部隊編成のために礼拝堂へと向かった。部屋から出て行くときに、幾人かはガルドを盗み見ていた。
ガルドは唯、ジェイムズの顔を見つめていた。
ジェイムズは依然としてガルドから目を逸らしていた。
「……枢機卿猊下は速やか且つ最小限の被害を望んでいますが、あの魔戦士相手に独力で敵うとお思いでしたら、甘いとしか言えません」
「だからこそだ。猊下も出来の良い息子を失いたくない筈だ」
ガルドはジェイムズに背を向けて、部屋から立ち去った。礼拝堂には向かわず、墓地へ出る扉を開けた。
墓地には扉の番をしている騎士が一人いるのみで、張り詰めた空気が充満した拠点の中で唯一の穏やかな場所だった。
番をしていた騎士は、ガルドがご苦労と声をかけると察して屋内に入っていった。
人の手が全く入っていない墓地は石が敷き詰められているせいか、放置された年月ほど荒れていなかった。寒々しい墓石の間を進み、ガルドは墓地の中央で独りになった。
日は南天を少し過ぎたくらいで、夏の陽気がまだ乗っていない風は日向でもひんやりとしていた。
みっともない、嫉妬してるのよ
「兄さんにも、立場というものがある。俺を無闇に立てることもできない」
風に乗って届いた幽かな声に、ガルドはそう呟いて返した。
「俺は俺に出来ることをやるしかない、あの時と同じだ」
ガルドは聖剣の柄を握った。
「あの時と同じ事になっても、やるしかないんだ」
先遣隊の情報から突入作戦は決行され、潜伏者はあっけなく捕縛された。
中にいたのは一人だけで、確認されていた協力者の姿はなかった。しかし、現場の様子から見捨てて逃げたのだろうと判断された。
捕縛された人物は既にこの事態を予期していたようで、ジェイムズにその場での面会を要求した。怪我で歩けないという理由だった。
罠は見当たらず、また安易に人目に晒す行為をさけるために、ジェイムズは要求に従って監視塔の中に踏み入れた。
監視塔は分かりやすい一本道の構造で、少し奥へ進んだ先で階段になっていた。
階段を上りきった先には扉がひとつだけあった。
開け放たれた扉の向こうは部屋となっていた。聖都の民家の居間と同じくらいの広さで、剣を振るうには少々手狭だ。事前に聞いていた話とは随分違うことに拍子抜けするほどだった。
ジェイムズが部屋に入ったとき、その人物は部屋の中心で四人の騎士に囲まれて座っていた。
騎士達は勝手に剣を収め、居心地悪そうに対象の監視を続けていた。命令違反ではあるが、さすがに、それをジェイムズは咎められなかった。
「お久しぶりでございます、シルヴィア様」
長年仕えてきた癖からか、ジェイムズは目の前の少女にうやうやしく礼をした。
シルヴィアは、ジェイムズが知っている頃とは変わり果てた姿になっていた。
腰まで届いていた月色の髪はばっさりと切り落とされていた。強く掴めば折れそうだった細い身体には薄く筋肉がつき始めていた。
両腕に薄汚い布の切れ端を巻き、ボロ切れのような黒い外套を肩にかけている。外套の袖は肩口から千切れてなくなっていた。
怪我をしている、との報告通り、左足にも血で汚れた布を巻いていた。
「ジェイムズ、あの場にいなかったのでこちらで会えると思っていました」
なんの感慨も含まない声で、シルヴィアはジェイムズを見上げた。新緑のような色の双眸に淀むことなくジェイムズの姿が映った。
「ガルドも近くにいるとは思いましたけれど、まずはあなたが来るのではないかと」
自由のない状況で、シルヴィアは淡々と言葉を紡いだ。
その有様はあまりにも無垢で空虚で、ジェイムズの知るシルヴィアそのものだった。ジェイムズの目頭が熱くなった。
「シルヴィア様、改めてお伺いします。改革派の小教会に加担したのは事実なのでしょうか。私には優しく美しいシルヴィア様がそのようなことに進んで加担するなど……」
「私が求められた優しさとは、そのようなものではないでしょう。貴方達が求め、必要としたのは拒まない優しさだったはずです」
淡々と紡がれ続ける言葉に、ジェイムズは硬直した。
「貴方も知っているでしょう、私は覚えていますよ」
シルヴィアの眼に映るジェイムズの顔から、血の気が引いていった。
「いえ……あの……まさか、その……そのために、そのためだけに、奴らと手を組んだと」
「そうは言っていませんよ、ただ事実確認をしただけです。私は貴方のことを特別に何か思っているわけではありません」
「……そんなことのためだけに教皇聖下に手をかけた、と」
一転、ジェイムズの顔は激昂で赤く染まった。
「あの人は、『死ぬべくして死んだだけ』です。自ら死の運命を選んでしまったというだけの」
「あの人……! 貴方は自分の母親を一体なんだと……」
「あの人はお母様ではありません」
「……っ!」
ジェイムズは身体を震わせ、シルヴィアに掴みかかろうとした。咄嗟に四人の騎士達がジェイムズを押さえつけた。
「副団長、抑えてください!」
「シルヴィア様ですよ!」
「さすがにそれ以上は」
「静めて、静めて!」
「いけ」
天井と思わせていた布を突き破り降ってきた刃物が四人の騎士の脳天に突き刺さった。骨を貫いたとは思えないさくり、という音がした。
黒い刃はさらさらと崩れていき、四人はその場で脱力した。
ジェイムズは何が起こったのかわからなかった。
「な、何が――!」
出来上がったばかりの死体に押さえつけられた体勢のまま、ジェイムズは右膝に鋭い痛みを感じた。
右足に黒い蛇が絡みつき、牙を膝へと突き立てていた。
「ギル、取り敢えずそれを使ってくれ。完全に壊しても構わない」
シルヴィアは立ち上がると、部屋の隅に転がしてあった両手剣をジェイムズの足元に向かって蹴った。
――素材としちゃあなかなか良いな。契約じゃねぇから大分腹減るけどなんとかなるか。
ジェイムズは蛇に食らいつかれた場所からじわじわと熱を奪われているのが分かった。
毒が侵食していくように、自分とは異なる意識が入り込んでくることも感じ取っていた。彼が魔剣に触れるのは初めてだったが、それが魔剣の仕業であることは相違なかった。
「ジェイムズ、一応お願いしておきましょう。貴方の弟のガルドと戦って死んでいただけないでしょうか」
ジェイムズは今にも途切れそうな意識を必死で繋ぎながら、シルヴィアへと目を向けた。
シルヴィアはいつも通り、感情のない人形のような目でジェイムズを見ていた。
それが、ジェイムズ・チェクルスが生きている間に見た最後の光景だった。
近衛騎士団副団長ジェイムズ・チェクルスはガントレットを着けた両腕を組んで唸った。
しかつめらしく凄みのある兄や実力の割に自信がなさそうな弟とは異なり、彼は精悍な顔立ちで女性に受けがよかった。しかし、今はやつれて覇気のない顔をしていた。
揺すりをかけた異端派の小教会から不審な人物の情報を得たのが三日前、そして不審者が出入りする場所を突き止めたのが今日のことだった。
近衛騎士団は即座に出動し、発見地点から最寄りの廃教会を拠点とした。
旧教区の廃教会は普段の寂れた様子から一変し、教会騎士が大勢詰め寄せていた。
礼拝堂では騎士達が休憩や武具の手入れを行い、鐘を外された屋上の鐘楼は物見に、裏手の書斎は各指揮官達の作戦会議室と化していた。
使われなくなって久しい教会の中には家具が殆ど残っていなかった。司祭が引き払ったのか、それとも旧教区のならずもの達がせっせと運びだしたのか、地下の聖像すら打ち壊されて宝飾品を取り払われていた。
そのため、聖都内部であるのにわざわざ野営設備を運び入れる羽目になった。
「こちらに勘付いているのやもしれません」
会議に参加しているジェイムズの部下が進言した。
「隙を見て逃げる算段をつけているのでは」
「城壁内の構造図はまだ見つかっていないのか」
「枢機卿猊下より許可を賜ったので、宝物庫や教皇聖下の書庫を捜索しているのですが、未だそれらしいものは見つかっておりません」
次々と報告がなされるが、どれも大した進展はみられなかった。
ジェイムズは苦い顔で、卓の上に広げられた複数の地図に目を向けた。
周辺の詳細な地図や古い水路の配管図、城壁外の地形を描いたものが数点。どれも教会の技術で正確に測定して製図されたもので、地形情報に狂いはない――唯一つ、騎士達が監視している場所が書き込まれていないということを除いて。
敵と思しき相手の所在が分かっているというのに、近衛騎士団が攻めあぐねているのは潜伏先に問題があった。
目撃者によると、不審な黒髪の女は城壁沿いを歩き、長らく失われていた筈の監視塔の中に入っていったという。
誰も気が付かなかった扉を開けた姿を見て、異端の小教会ではあるが、それでも敬虔な敬月教信者を自称する彼らも大変驚いていた。
監視塔の内部には市民の避難所や伝書鳩の飼育部屋、そしてモンスターに対抗するための武器が蓄えられた武器庫等、文字通り最後の砦として機能する設備があると言い伝えられている。
しかし、城壁内への入り口は百年以上前に失われていた。
壊された訳でも、鍵がなくなって閉ざされたままという訳でもない。ただ、誰もが何処に扉が存在するのかという記憶と記録を忘れてしまったのである。そして、今日に至るまで扉があったということを知っていても、見たものは誰も存在していなかった。
明かり取りの窓や排水、換気口といった外部に繋がる部分を探し、他の監視塔から城壁伝いに上から入ろうとしても、誰にも出入り口を見つけることができなかった。
城壁を壊してでも中に眠る遺産を発掘するべきだ、という過激な主張をする者もいた。だが、反対に押されて実現されず、そもそも神の加護を受けた白亜の城壁にはどんな槌や鑿も弾かれてしまうだけだった。
何故その女が扉の場所を知っていたのかは分からないが――近衛騎士団の半数は大方事情を察していたが――構造が不明の建築物に闇雲に突撃するわけにもいかなかった。
「副団長、ここは逐次小隊を出して攻めるべきかと。内部に抜け道がある可能性が捨てきれない以上、取り逃がしを防ぐには攻めるしかないのでは」
膠着状態に焦れた一人の騎士が進言した。それに他の騎士達も同調するような素振りをみせた。
教皇聖下の崩御から既に七日が経ち、市井にも噂と動揺が広がりつつある中、騎士達にも焦りが見えていた。
「いや、向こうが今更慌てて動くとは思えません。逃げるのならとっくに聖都からいなくなっている。そして、今も抜け出そうという様子はない」
ジェイムズもその言葉に首肯しようとしたとき、横から待ったがかかった。
作戦会議室の入り口に若い騎士が立っていた。
栗色の髪に鳶色の眼をした頼りなさげな風貌。黒い制服の上から軽い革鎧と大振りな籠手という装いに、腰には紅玉が埋め込まれた黒い柄の両手剣を携えている。
「遅くなりました、副団長殿」
騎士はジェイムズに敬礼した。
「ガルドか」
声の主は、ガイエラフ・チェクルス――ジェイムズの弟にして聖剣の使い手である教会騎士だった。
現状をジェイムズの配下の騎士がもう一度ガルドに内容をかいつまんで説明した。
それを聞いてから、ガルドは改めて提案した。
「おそらく、用意周到に罠をめぐらせ、こちらの出方を伺っていると考えるべきです。魔剣を所持している可能性もあります。構造図が発見されるまで動かない方が得策です」
ガルドの一方的な主張に、ジェイムズの部下達は眉根を寄せた。
「お言葉ですが、今日から現場入りした貴殿はご存知ないかもしれませんが、不審な女が運んでいたのは僅かな物資。とても籠城するには足りません」
「監視塔には食料以外の守りの叡智と武装がある、という言い伝えはよく知られた話だと思っていましたが」
「数百年も前のものが使い物になるわけがない」
「この聖剣は建国当初から存在していました。幾度か宝物庫で封印されていたこともあったが、未だ錆の一つも浮いていない。そのような物品が唯一と考えるのは早計では」
頑として主張を曲げないガルドに、場の空気が悪くなっていった。
ガルドはこの場で最も若輩で、騎士としての経験も浅い。しかし、彼には第十二騎士隊副隊長という地位と聖剣を駆る技量があった。本来なら、年上とはいえ位の低い騎士が軽々しく意見することなどあってはならないことだ。
しかし、その場にいた騎士達は悉くガルドの意見に難色を示していた。ジェイムズもそれを諫めなかった。
「例え罠があったとして、このまま手をこまねいている訳にもいかない。先遣隊を組織しろ」
「それならば、私も同行します」
「いや、ガイエラフ殿は現状動ける唯一の聖剣使いだ。罠の危険があるなら尚更待機していてほしい。罠の有無が確認出来次第、私が陣頭指揮を執る」
ジェイムズが下した決断に、ガルドの顔が曇った。
「ジェイムズ兄さん、手を抜くことを懸念しているのなら筋違いだ。そうであるなら、俺はとっくに聖剣を置いている」
力説するガルドの手は、自然と聖剣の黒い柄に触れていた。
「疑ってなどいない。指揮に従えと言っているだけだ、いいな。部隊の編成は――」
ジェイムズはガルドの顔を見ずに、部下達へ指示をとばした。
部下達はすぐさま部隊編成のために礼拝堂へと向かった。部屋から出て行くときに、幾人かはガルドを盗み見ていた。
ガルドは唯、ジェイムズの顔を見つめていた。
ジェイムズは依然としてガルドから目を逸らしていた。
「……枢機卿猊下は速やか且つ最小限の被害を望んでいますが、あの魔戦士相手に独力で敵うとお思いでしたら、甘いとしか言えません」
「だからこそだ。猊下も出来の良い息子を失いたくない筈だ」
ガルドはジェイムズに背を向けて、部屋から立ち去った。礼拝堂には向かわず、墓地へ出る扉を開けた。
墓地には扉の番をしている騎士が一人いるのみで、張り詰めた空気が充満した拠点の中で唯一の穏やかな場所だった。
番をしていた騎士は、ガルドがご苦労と声をかけると察して屋内に入っていった。
人の手が全く入っていない墓地は石が敷き詰められているせいか、放置された年月ほど荒れていなかった。寒々しい墓石の間を進み、ガルドは墓地の中央で独りになった。
日は南天を少し過ぎたくらいで、夏の陽気がまだ乗っていない風は日向でもひんやりとしていた。
みっともない、嫉妬してるのよ
「兄さんにも、立場というものがある。俺を無闇に立てることもできない」
風に乗って届いた幽かな声に、ガルドはそう呟いて返した。
「俺は俺に出来ることをやるしかない、あの時と同じだ」
ガルドは聖剣の柄を握った。
「あの時と同じ事になっても、やるしかないんだ」
先遣隊の情報から突入作戦は決行され、潜伏者はあっけなく捕縛された。
中にいたのは一人だけで、確認されていた協力者の姿はなかった。しかし、現場の様子から見捨てて逃げたのだろうと判断された。
捕縛された人物は既にこの事態を予期していたようで、ジェイムズにその場での面会を要求した。怪我で歩けないという理由だった。
罠は見当たらず、また安易に人目に晒す行為をさけるために、ジェイムズは要求に従って監視塔の中に踏み入れた。
監視塔は分かりやすい一本道の構造で、少し奥へ進んだ先で階段になっていた。
階段を上りきった先には扉がひとつだけあった。
開け放たれた扉の向こうは部屋となっていた。聖都の民家の居間と同じくらいの広さで、剣を振るうには少々手狭だ。事前に聞いていた話とは随分違うことに拍子抜けするほどだった。
ジェイムズが部屋に入ったとき、その人物は部屋の中心で四人の騎士に囲まれて座っていた。
騎士達は勝手に剣を収め、居心地悪そうに対象の監視を続けていた。命令違反ではあるが、さすがに、それをジェイムズは咎められなかった。
「お久しぶりでございます、シルヴィア様」
長年仕えてきた癖からか、ジェイムズは目の前の少女にうやうやしく礼をした。
シルヴィアは、ジェイムズが知っている頃とは変わり果てた姿になっていた。
腰まで届いていた月色の髪はばっさりと切り落とされていた。強く掴めば折れそうだった細い身体には薄く筋肉がつき始めていた。
両腕に薄汚い布の切れ端を巻き、ボロ切れのような黒い外套を肩にかけている。外套の袖は肩口から千切れてなくなっていた。
怪我をしている、との報告通り、左足にも血で汚れた布を巻いていた。
「ジェイムズ、あの場にいなかったのでこちらで会えると思っていました」
なんの感慨も含まない声で、シルヴィアはジェイムズを見上げた。新緑のような色の双眸に淀むことなくジェイムズの姿が映った。
「ガルドも近くにいるとは思いましたけれど、まずはあなたが来るのではないかと」
自由のない状況で、シルヴィアは淡々と言葉を紡いだ。
その有様はあまりにも無垢で空虚で、ジェイムズの知るシルヴィアそのものだった。ジェイムズの目頭が熱くなった。
「シルヴィア様、改めてお伺いします。改革派の小教会に加担したのは事実なのでしょうか。私には優しく美しいシルヴィア様がそのようなことに進んで加担するなど……」
「私が求められた優しさとは、そのようなものではないでしょう。貴方達が求め、必要としたのは拒まない優しさだったはずです」
淡々と紡がれ続ける言葉に、ジェイムズは硬直した。
「貴方も知っているでしょう、私は覚えていますよ」
シルヴィアの眼に映るジェイムズの顔から、血の気が引いていった。
「いえ……あの……まさか、その……そのために、そのためだけに、奴らと手を組んだと」
「そうは言っていませんよ、ただ事実確認をしただけです。私は貴方のことを特別に何か思っているわけではありません」
「……そんなことのためだけに教皇聖下に手をかけた、と」
一転、ジェイムズの顔は激昂で赤く染まった。
「あの人は、『死ぬべくして死んだだけ』です。自ら死の運命を選んでしまったというだけの」
「あの人……! 貴方は自分の母親を一体なんだと……」
「あの人はお母様ではありません」
「……っ!」
ジェイムズは身体を震わせ、シルヴィアに掴みかかろうとした。咄嗟に四人の騎士達がジェイムズを押さえつけた。
「副団長、抑えてください!」
「シルヴィア様ですよ!」
「さすがにそれ以上は」
「静めて、静めて!」
「いけ」
天井と思わせていた布を突き破り降ってきた刃物が四人の騎士の脳天に突き刺さった。骨を貫いたとは思えないさくり、という音がした。
黒い刃はさらさらと崩れていき、四人はその場で脱力した。
ジェイムズは何が起こったのかわからなかった。
「な、何が――!」
出来上がったばかりの死体に押さえつけられた体勢のまま、ジェイムズは右膝に鋭い痛みを感じた。
右足に黒い蛇が絡みつき、牙を膝へと突き立てていた。
「ギル、取り敢えずそれを使ってくれ。完全に壊しても構わない」
シルヴィアは立ち上がると、部屋の隅に転がしてあった両手剣をジェイムズの足元に向かって蹴った。
――素材としちゃあなかなか良いな。契約じゃねぇから大分腹減るけどなんとかなるか。
ジェイムズは蛇に食らいつかれた場所からじわじわと熱を奪われているのが分かった。
毒が侵食していくように、自分とは異なる意識が入り込んでくることも感じ取っていた。彼が魔剣に触れるのは初めてだったが、それが魔剣の仕業であることは相違なかった。
「ジェイムズ、一応お願いしておきましょう。貴方の弟のガルドと戦って死んでいただけないでしょうか」
ジェイムズは今にも途切れそうな意識を必死で繋ぎながら、シルヴィアへと目を向けた。
シルヴィアはいつも通り、感情のない人形のような目でジェイムズを見ていた。
それが、ジェイムズ・チェクルスが生きている間に見た最後の光景だった。