残酷な描写あり
R-15
救済に手を伸ばして(1)
そこは、真っ白に凍りついた森だった。
木の幹には霜が張り付き、針のような枝葉からは氷柱を垂らしている。下草は雪に埋もれ、滑らかな白い大地が続いていた。
白い森の中で、黒い外套を着たリーフが佇んでいた。
体格より二回り程大きい外套を袖を捲りあげて手を通し、襟とフードに顔を半分埋めながら、リーフは立っていた。
氷の結晶をのせた風に打たれながら、橄欖石の目で正面を見ていた。
リーフの視線の先には、白い男が立っていた。
白い毛皮で飾られた革の上着に、手足を白い鎧で覆っていた。頭髪は、銀を基調として黒が所々に散り、少し釣り上がった双眸は深い緑を湛えていた。鼻筋が通った美男子で、リーフよりも一回り年長に見えた。
表情の作りが細やかで、僅かに浮かべた笑みが絵画のように様になっていた。
「貴方とは、はじめまして、ではない筈だ」
リーフが言った。
「そうだね。あの時は、君は正体を失いかけていたけれど、此処で会ったよ」
男は耳障りのよい声色で返した。
「そう、あの時、貴方はボクを殺そうとしていた」
「それは違う。今言ったように、君は正体を失いかけていた。あのままでは君は死んでいた。だから、失ったものを正しく認めて心を取り戻してほしかった」
「失ったもの?」
「母親だよ。君を愛してくれた母親だ」
「そんなものはいない」
リーフは自然に答えた。太陽と月が一つずつしかないことを幼子に諭すように、当たり前のように淀みなく答えた。
「ボクに母親に値する存在はいなかった。しかし、元よりそのようなものはボクに必要なかったのだ」
男の目が曇った。
「ほら、あの悪魔が君の心を壊してしまったせいだ。君はもう傷に目を背けて生きていくしかないんだ」
「今更失くしたものが増えたところで、ボクにはもう意味がないと思うのだけれど」
リーフの足がさくり、と新雪を踏んだ。足は殆ど雪に埋もれることなく、芝生のように重みを支えていた。
「意味はあるさ。君の命を悪魔にくれてやるつもりはないよ」
リーフの足がもう一歩、男へと進んだ。
「それは契約違反だ。ボクはこれから死ぬのだ」
「いいや、オレは君をもう死なせないと決めたんだ」
リーフは顔に張り付いた氷の結晶を左手で拭いながら、男へと歩み寄っていった。
「それは貴方の望みであって、ボクの望みではない」
「そうかもしれない。それでも、オレは君に生きていてほしいんだ」
「拒否する」
男は懇願するが、リーフは言葉を全て切って捨てた。
リーフは男の真正面に立った。男は長身で、リーフよりも頭一つ分以上背が高かった。
「しかし、拒否したところで貴方はボクの命を永らえさせてしまうのでしょう」
リーフが大きく一歩を踏み出し、男に右手を叩きつけた。男の喉から苦痛の声が漏れた。
男の胸を黒い刃物が貫いた。
左肺に穴を穿つ重傷は背中を突き抜け、切っ先を寒空の下に晒した。
「だから、もう渡してきたし、貴方も殺す」
リーフの右腕は血塗れだった。刃物に握りはなく、硝子片のような刃を直に握りしめていた。指も手のひらも刃物に半分近く埋まり、流れ出る血の量は男の傷とよい勝負だった。
否、リーフの外套から滴り落ちる赤い雫は既に致死量に達していた。
黒い外套の胸部が濡れて、色がより濃くなっていた。リーフの身体は氷のように冷たく冷え切り、血の熱にたじろぐこともない。立っていられるのは、既に死んでしまったものを動かしているからだ。
「死んでしまったものを、生き返らせるものはない」
「いいや、まだ此処にあるさ」
自らの血で肺が溺れているというのに、男は貴重な空気を吐き出した。
男が刃物を持つリーフの手を握った。籠手越しであるというのに、男の手の温もりがリーフに伝わってきた。
リーフの手に力が入り、刃がさらに肺を切り裂いた。男が苦痛に喘ぐ。
それでも、男は手を離さなかった。
「オレは断片、家族に生きていて欲しいと願う、ただの断片だ」
男は刃物に貫かれたまま、リーフを抱きしめた。
「ただ生きていて欲しかったんだ、君に」
◇ ◆ ◇
リーフが目を覚ましたのは、懐かしさすら感じる寝台の中だった。
柔らかな枕に支えられた頭上には、草木の刺繍が施された天蓋が見えた。
「だから、いつになったら俺に返してくれるんだよ」
「いつからあんたのものになったってのよ!」
「仕方ねぇだろリーフが死んだのは、そういう契約だったんだから」
聞き覚えのある声が二人分、リーフの左耳に届いた。片方は、顔を知った今ではお似合いだと頷ける、気に障る若い男の声。もう一方は、どこか張りのない少女の声。
「――っの、言うに事欠いてぇっ!」
床を蹴る音に続いて、どたんばたんと暴れる振動が寝台まで震わせた。
「あだだだだだっ、腕取れる、また腕取れる!」
「命乞いしてんじゃないわよ魔剣の癖に」
声を追ってリーフが頭を左に向けると、取っ組み合いをしている二人が目に入った。
絨毯の敷かれた床の上で、黒髪の少女が男を蹴り倒し、左腕を捻りあげていた。飾り気のない若草色のワンピースから覗くヒールで、男の背中を逃すまいと踏み躙っている。
男は拘束から逃れようと藻掻いていたが、少女は嗜虐的な笑みを浮かべながらさらに捻りあげる。
男が喚く通り、常軌を逸した力で拗じられた左腕は既に脱臼して奇怪な角度を晒し、さらに筋繊維の断絶と軟骨の乖離を訴える音が聞こえた。
「クッソ、こんなボロい人形から出たら本気で泣かす」
「調子乗ってんなクソ骨董品」
「あ、ちょっ、その角度はマジで根本から逝く!」
男が目で少女に訴えかけようと顔を上げた。
「あ」
男の朱色の目とリーフの目が合い、男は目を見開いた――瞬間、男の左腕が肩から引っこ抜かれた。
急になくなった抵抗力に、少女の身体が後ろに倒れて尻餅をついた。肩から漆黒の液体が吹き上がる。
「あ」
やばい、と少女の表情が凍りついた。
「ああああーっ! またやりやがったなテメェーーーっ!!」
男は痛みにのたうったが、咄嗟に右手で左腕の断面を掴んで黒い血の流出を抑えた。指の間から溢れた血が絨毯を汚した。
「そして何で生きてんだよお前ーーーっ!」
男は左腕の断面を掴んだまま、寝台に這いずって突進した。片腕を不自由にされたにしては相当速かった。絨毯の上に黒い線が一直線に伸びた。
「何で此処にいるの、ギル」
ギルの問いに対し、リーフも問いで返した。乾いた喉から発せられた声は、ひび割れしゃがれていた。
目の粘膜がくっつきそうな距離まで近づけ、ギルとリーフはお互いが幻覚ではないことを確認した。
生気の戻らないリーフの目と、無駄に生き生きとしたギルの目が瞳孔の奥を舐めるように交錯した。
「というか、君の血は黒だったのか」
「あー、それはクソ狼共に無理やりこっちに押し込められたせいっつーか、身体を治す交換条件だったっつーか」
「リーフっ!!」
要領の得ないギルの言葉を本人ごと後方にぶん投げ、半泣きのリンがリーフに抱きついた。
壁に叩きつけられたギルが呻き声をあげた。
「……マジで絞めるぞ」
「本当に、本当にリーフだよね。生きてるんだよねっ」
背後から聞こえる呪詛を完全無視し、リンが感極まって本当に泣き始めた。
「うえっ、うえっ……ひぐっ」
「うん、まあ、どうして生きているのだろうね」
リーフは布団に涙の染みを散らすリンを見て、絨毯の上に放置された左腕を見て、諦めたように腕を拾いに行くギルを見た。
「ところで、魔剣である筈のギルがこうやって歩いていたり、君に腕をもぎ取られたりしているのはどういう原理なのだい」
「俺だって好きで腕落としてんじゃねぇし。コレ、このままくっついたりできねぇのか」
ギルはばつが悪そうに自分の腕を拾い上げ、服の残骸を口で剥がした。引き裂かれてずたずたになった断面と肩を擦り合わせ、くっつかないかと試し始めた。
その行為だけでも激痛が走りそうなものだが、ギルは少し顔を顰めた程度で作業を続けた。
「あのー、あんまり煩いとまた怒られちゃいますよー」
部屋の扉を開けて、金髪の男が顔を覗かせた。部屋の状況を確認して、男の顔が固まった。
「あ、マジでくっついた。あたたたた、感覚戻ると痛ぇな畜生」
「本当にっ、本当にっ、良がっだーーーっ!」
黒い液体を調度品に撒き散らし、その中心で上半身を真っ黒にしながら自分の身体を工作しているギル。加えて、寝台でおいおいと喧しく泣くリン。
既に、部屋の中の状況は取り返しのつかない混沌に至っていた。
男の漆黒の目が大声で泣き続けるリンからリーフへと移動し、途端に丸くなった。
「え、リーフさん! 目を覚ましたんですか!」
「その言い方……ひょっとして、君はイルハールスか」
「ええ、そう、そうです」
男はリーフの問いに、ゆるゆると首肯した。
押しの弱そうな印象のその男は、使用人の服を着用していた。人目を避けるような黒いフード付きの上着をしっかりと着込んでいなければ、使用人に混ざっていても違和感がなかっただろう。
リーフはもう一度、部屋の中を見渡した。部屋の広さと内装からして貴族か豪商の家だと推測できた。理屈は不明だがギルとイーハンが自由に動いていることから、そちら側の関係者であることも想像に難くない。
リーフが死んだ後、何があったのかさっぱり分からなかった。
考えすぎて、リーフの頭を鈍痛が襲った。額を手で押さえてため息をついた。
「とりあえず、ギルは着替えろ。リンは涙を拭け。イーハンはちょっとこっちに来い」
呆れながらリーフは三者に指示を飛ばした。
木の幹には霜が張り付き、針のような枝葉からは氷柱を垂らしている。下草は雪に埋もれ、滑らかな白い大地が続いていた。
白い森の中で、黒い外套を着たリーフが佇んでいた。
体格より二回り程大きい外套を袖を捲りあげて手を通し、襟とフードに顔を半分埋めながら、リーフは立っていた。
氷の結晶をのせた風に打たれながら、橄欖石の目で正面を見ていた。
リーフの視線の先には、白い男が立っていた。
白い毛皮で飾られた革の上着に、手足を白い鎧で覆っていた。頭髪は、銀を基調として黒が所々に散り、少し釣り上がった双眸は深い緑を湛えていた。鼻筋が通った美男子で、リーフよりも一回り年長に見えた。
表情の作りが細やかで、僅かに浮かべた笑みが絵画のように様になっていた。
「貴方とは、はじめまして、ではない筈だ」
リーフが言った。
「そうだね。あの時は、君は正体を失いかけていたけれど、此処で会ったよ」
男は耳障りのよい声色で返した。
「そう、あの時、貴方はボクを殺そうとしていた」
「それは違う。今言ったように、君は正体を失いかけていた。あのままでは君は死んでいた。だから、失ったものを正しく認めて心を取り戻してほしかった」
「失ったもの?」
「母親だよ。君を愛してくれた母親だ」
「そんなものはいない」
リーフは自然に答えた。太陽と月が一つずつしかないことを幼子に諭すように、当たり前のように淀みなく答えた。
「ボクに母親に値する存在はいなかった。しかし、元よりそのようなものはボクに必要なかったのだ」
男の目が曇った。
「ほら、あの悪魔が君の心を壊してしまったせいだ。君はもう傷に目を背けて生きていくしかないんだ」
「今更失くしたものが増えたところで、ボクにはもう意味がないと思うのだけれど」
リーフの足がさくり、と新雪を踏んだ。足は殆ど雪に埋もれることなく、芝生のように重みを支えていた。
「意味はあるさ。君の命を悪魔にくれてやるつもりはないよ」
リーフの足がもう一歩、男へと進んだ。
「それは契約違反だ。ボクはこれから死ぬのだ」
「いいや、オレは君をもう死なせないと決めたんだ」
リーフは顔に張り付いた氷の結晶を左手で拭いながら、男へと歩み寄っていった。
「それは貴方の望みであって、ボクの望みではない」
「そうかもしれない。それでも、オレは君に生きていてほしいんだ」
「拒否する」
男は懇願するが、リーフは言葉を全て切って捨てた。
リーフは男の真正面に立った。男は長身で、リーフよりも頭一つ分以上背が高かった。
「しかし、拒否したところで貴方はボクの命を永らえさせてしまうのでしょう」
リーフが大きく一歩を踏み出し、男に右手を叩きつけた。男の喉から苦痛の声が漏れた。
男の胸を黒い刃物が貫いた。
左肺に穴を穿つ重傷は背中を突き抜け、切っ先を寒空の下に晒した。
「だから、もう渡してきたし、貴方も殺す」
リーフの右腕は血塗れだった。刃物に握りはなく、硝子片のような刃を直に握りしめていた。指も手のひらも刃物に半分近く埋まり、流れ出る血の量は男の傷とよい勝負だった。
否、リーフの外套から滴り落ちる赤い雫は既に致死量に達していた。
黒い外套の胸部が濡れて、色がより濃くなっていた。リーフの身体は氷のように冷たく冷え切り、血の熱にたじろぐこともない。立っていられるのは、既に死んでしまったものを動かしているからだ。
「死んでしまったものを、生き返らせるものはない」
「いいや、まだ此処にあるさ」
自らの血で肺が溺れているというのに、男は貴重な空気を吐き出した。
男が刃物を持つリーフの手を握った。籠手越しであるというのに、男の手の温もりがリーフに伝わってきた。
リーフの手に力が入り、刃がさらに肺を切り裂いた。男が苦痛に喘ぐ。
それでも、男は手を離さなかった。
「オレは断片、家族に生きていて欲しいと願う、ただの断片だ」
男は刃物に貫かれたまま、リーフを抱きしめた。
「ただ生きていて欲しかったんだ、君に」
◇ ◆ ◇
リーフが目を覚ましたのは、懐かしさすら感じる寝台の中だった。
柔らかな枕に支えられた頭上には、草木の刺繍が施された天蓋が見えた。
「だから、いつになったら俺に返してくれるんだよ」
「いつからあんたのものになったってのよ!」
「仕方ねぇだろリーフが死んだのは、そういう契約だったんだから」
聞き覚えのある声が二人分、リーフの左耳に届いた。片方は、顔を知った今ではお似合いだと頷ける、気に障る若い男の声。もう一方は、どこか張りのない少女の声。
「――っの、言うに事欠いてぇっ!」
床を蹴る音に続いて、どたんばたんと暴れる振動が寝台まで震わせた。
「あだだだだだっ、腕取れる、また腕取れる!」
「命乞いしてんじゃないわよ魔剣の癖に」
声を追ってリーフが頭を左に向けると、取っ組み合いをしている二人が目に入った。
絨毯の敷かれた床の上で、黒髪の少女が男を蹴り倒し、左腕を捻りあげていた。飾り気のない若草色のワンピースから覗くヒールで、男の背中を逃すまいと踏み躙っている。
男は拘束から逃れようと藻掻いていたが、少女は嗜虐的な笑みを浮かべながらさらに捻りあげる。
男が喚く通り、常軌を逸した力で拗じられた左腕は既に脱臼して奇怪な角度を晒し、さらに筋繊維の断絶と軟骨の乖離を訴える音が聞こえた。
「クッソ、こんなボロい人形から出たら本気で泣かす」
「調子乗ってんなクソ骨董品」
「あ、ちょっ、その角度はマジで根本から逝く!」
男が目で少女に訴えかけようと顔を上げた。
「あ」
男の朱色の目とリーフの目が合い、男は目を見開いた――瞬間、男の左腕が肩から引っこ抜かれた。
急になくなった抵抗力に、少女の身体が後ろに倒れて尻餅をついた。肩から漆黒の液体が吹き上がる。
「あ」
やばい、と少女の表情が凍りついた。
「ああああーっ! またやりやがったなテメェーーーっ!!」
男は痛みにのたうったが、咄嗟に右手で左腕の断面を掴んで黒い血の流出を抑えた。指の間から溢れた血が絨毯を汚した。
「そして何で生きてんだよお前ーーーっ!」
男は左腕の断面を掴んだまま、寝台に這いずって突進した。片腕を不自由にされたにしては相当速かった。絨毯の上に黒い線が一直線に伸びた。
「何で此処にいるの、ギル」
ギルの問いに対し、リーフも問いで返した。乾いた喉から発せられた声は、ひび割れしゃがれていた。
目の粘膜がくっつきそうな距離まで近づけ、ギルとリーフはお互いが幻覚ではないことを確認した。
生気の戻らないリーフの目と、無駄に生き生きとしたギルの目が瞳孔の奥を舐めるように交錯した。
「というか、君の血は黒だったのか」
「あー、それはクソ狼共に無理やりこっちに押し込められたせいっつーか、身体を治す交換条件だったっつーか」
「リーフっ!!」
要領の得ないギルの言葉を本人ごと後方にぶん投げ、半泣きのリンがリーフに抱きついた。
壁に叩きつけられたギルが呻き声をあげた。
「……マジで絞めるぞ」
「本当に、本当にリーフだよね。生きてるんだよねっ」
背後から聞こえる呪詛を完全無視し、リンが感極まって本当に泣き始めた。
「うえっ、うえっ……ひぐっ」
「うん、まあ、どうして生きているのだろうね」
リーフは布団に涙の染みを散らすリンを見て、絨毯の上に放置された左腕を見て、諦めたように腕を拾いに行くギルを見た。
「ところで、魔剣である筈のギルがこうやって歩いていたり、君に腕をもぎ取られたりしているのはどういう原理なのだい」
「俺だって好きで腕落としてんじゃねぇし。コレ、このままくっついたりできねぇのか」
ギルはばつが悪そうに自分の腕を拾い上げ、服の残骸を口で剥がした。引き裂かれてずたずたになった断面と肩を擦り合わせ、くっつかないかと試し始めた。
その行為だけでも激痛が走りそうなものだが、ギルは少し顔を顰めた程度で作業を続けた。
「あのー、あんまり煩いとまた怒られちゃいますよー」
部屋の扉を開けて、金髪の男が顔を覗かせた。部屋の状況を確認して、男の顔が固まった。
「あ、マジでくっついた。あたたたた、感覚戻ると痛ぇな畜生」
「本当にっ、本当にっ、良がっだーーーっ!」
黒い液体を調度品に撒き散らし、その中心で上半身を真っ黒にしながら自分の身体を工作しているギル。加えて、寝台でおいおいと喧しく泣くリン。
既に、部屋の中の状況は取り返しのつかない混沌に至っていた。
男の漆黒の目が大声で泣き続けるリンからリーフへと移動し、途端に丸くなった。
「え、リーフさん! 目を覚ましたんですか!」
「その言い方……ひょっとして、君はイルハールスか」
「ええ、そう、そうです」
男はリーフの問いに、ゆるゆると首肯した。
押しの弱そうな印象のその男は、使用人の服を着用していた。人目を避けるような黒いフード付きの上着をしっかりと着込んでいなければ、使用人に混ざっていても違和感がなかっただろう。
リーフはもう一度、部屋の中を見渡した。部屋の広さと内装からして貴族か豪商の家だと推測できた。理屈は不明だがギルとイーハンが自由に動いていることから、そちら側の関係者であることも想像に難くない。
リーフが死んだ後、何があったのかさっぱり分からなかった。
考えすぎて、リーフの頭を鈍痛が襲った。額を手で押さえてため息をついた。
「とりあえず、ギルは着替えろ。リンは涙を拭け。イーハンはちょっとこっちに来い」
呆れながらリーフは三者に指示を飛ばした。