残酷な描写あり
R-15
異形のある世界で(1)
一台の幌馬車が森の中を進んでいた。
森の道は荒れ放題で、馬車以外に人気はない。
雑草が茂っているだけでなく、大きな石が転がっていたり、大きな溝があったり、地面から木の根が突き出ていたりと、平坦な部分は殆どなかった。そのせいで、ゆっくり進んでいるにもかかわらず馬車は常に横に縦にと揺れていた。
車輪が何か大きな障害物に引っ掛かって宙に浮く度、積み荷と乗員の足下が一瞬持ち上がっては落とされた。
それでも厳重に梱包された荷物は無傷だが、人間の内臓を揺さぶられる不快感だけはどうしようもなかった。
座るだけである筈の馬車の乗員から、体力を奪おうという悪意すら感じる道であった。
「いつまでこんな道が続くのよ」
馬車の後方から自然の悪意に耐えかねて乗員が身を乗り出した。
合わせてひょっこりと地面に頭の影が落ちた。
荒れた道に落ちる影には人らしからぬ耳が頭頂付近から生えていた。しかし、それは異形でもなんでもなく、帽子についた装飾だった。
獣の耳を模した帽子をかぶっていたのは、まだ年若い女性――少女と言ってもいいような風貌だ。
少女は黒っぽい革の上着を着て、下は厚手の乗馬ズボンとロングブーツという男のような服装をしていた。しかし、装いは男に寄せても、女性らしくめりはりのついた体型はむしろ際立っていた。
腰には複数のポーチとホルスターをぶら下げ、ホルスターの中には拳銃が収まっていた。
帽子の下からはこの辺りでは珍しい豊かな真っ黒の長髪が零れていて、黒い瞳と合わせて顔立ちはとても魅力的だった。
固定された木箱で足の踏み場も無い荷台の中で、少女は自分のため特別に空けられた狭い空間に、自前の荷物と一緒くたになって押し込められていた。
少女は振り落とされないよう幌を掴み、首を伸ばして外を見回した。
頭上には高木の枝が広がり、昼だというのに薄暗い。道の脇には草や低木が自生し、視界を遮り見通しが利かない。緑の深さからして、まだまだ森は続くようだ。
此処はリドバルド王国の西の果て、外地との緩衝地域とインディム王国との国境の両方にぶつかる、所属があやふやな森である。
馬車の行く先はインディム王国の貿易拠点で、少女は位置関係をよく分かっていないが、まだ随分と先にあった。
「リン、不用意に動くな。落ちても拾わないよ」
御者台から容赦の無い叱責が少女に向かってとんだ。
少女は声がした方をちらりと見て、溜め息をつくと身体を馬車の中に引っ込めた。少女は座り直して馬車の枠にもたれ掛かった。
御者台には二人の人間が座っていた。一人は、手綱を握って二頭の六足馬を前に進ませている商人。この馬車の持ち主である。
もう一人は剣を携えた用心棒だった。剣士は脇に立てかけた剣に寄りかかったまま、身じろぎ一つしていない。
声を発したのは、剣士の方だった。
剣士も少女と同じくらいの若者に見えた。
剣士は明らかに丈の合わないぶかぶかの黒い外套を着ていて、手には頑丈そうな革の手袋をはめていた。外套の袖がかなり余るのか、折り返してピンで留めている。逆に、ズボンは丈が短すぎて裾をブーツの中に引き込めず、だらしなくはためかせていた。
金のない傭兵が有り合わせの装備を身に纏ったような剣士の格好は、普通なら失笑ものなのだろうが、剣士の顔立ちがその不格好さを帳消しにしていた。
乾いた泥のような色の茶髪を襟足を残して短く切り揃え、新緑色の橄欖石に似た目は更に薄い色の睫毛で縁取られている。肌はさすらいの身の上とは思えない程白く、整った顔立ちと合わせて陶器の人形のような美しさがあった。
たったそれだけで、ならずもののような格好が、絵物語の吟遊詩人のように映えてしまうから驚きだ。
しかし、纏う雰囲気も人形のようにどこか生彩に欠けていた。美貌とは裏腹に人を引き付けるような魅力を感じない、何かが決定的に欠落してしまった空虚な目をしていた。
ある者は気味悪がって警戒心を抱くだろうし、またある者ならば、その目に底知れないものを感じてより一層気を引き締めるだろう。
それが、少女の相棒の剣士だった。
「時々動かないとお尻が痛くてやってられないわよ。リーフは全然痛くないの?」
少女――リンは腰を浮かせて剣士に言い返した。
リンが座っている場所には藁を編んだ敷物が敷かれていて、馬車から伝わってくる振動を軽減できるようになっていた。
それでも長い悪路の前では焼け石に水で、長時間座っていると尻から腰にかけてかなり堪えた。
今も、馬車から身を乗り出すことはやめたものの、リンは幌の枠に寄りかかって尻を床につけないようにしている。
「大した事はないと思うのだけれど。君はそんなに軟弱なのかい」
表情筋を少しも動かすことなく剣士――リーフが応えた。リンの方に振り返らずに言ったが、声の調子だけで余裕たっぷりであることは伺えた。
御者台にも同じ敷物が敷いてあり、剣士はその上に座っていた。剣士は馬車が出発してからずっと座ったままだったが、特に苦痛に思っていないようだった。
「誰かさんみたいに鋼でできてるわけじゃないからねーだ」
「キミのはただの贅肉だろう。むしろ貧相なボクのより衝撃を吸収しそうに思えるのだけどな」
リンの嫌みに対してリーフは即座に切り返した。リンの顔が一瞬で真っ赤になったが、前を向いて座っているリーフには見えていない。
「……うるさい」
リンはむくれると敷物の上にぺたんと座った。
その様を横目で見て、馬の手綱をさばいている商人が軽く笑った。
商人はゆったりとした旅装束にマントという格好で、年は四十近くに見えた。丁度自分の子供と同じくらいの若者同士の痴話喧嘩が微笑ましく思えたのか、特に邪見にする様子もなかった。
「お二人共、仲が良いんですねぇ。組んで長いんですか」
「そんなに長くはありませんよ。お見苦しいところをお目にかけて失礼しました」
リーフが静かに言った。
リンとリーフは商人のただの同行者ではなく、雇われた護衛である。
二人は外見からしてかなりの若手だったが、実力主義の界隈では珍しさ以上のものにはならない。確かな力さえあれば、誰も年齢など気にしなかった。
その腕前は商人も確認済みであり、安心して二人を雇っていた。
具体的には、リンが商人に絡んできたごろつきの首根っこを掴んで放り投げていた。背丈は然程変わらないとはいえ、自分よりも体格のよい男をあしらってしまった。リーフもまた、ごろつきの仲間を瞬時に組み伏せて制圧していた。
少なくとも、対人戦において二人は申し分ない実力があった。
「できれば、このまま平穏に辿り着けばよいのですが」
商人は常に落ち着き払ったリーフに感心しながらも、苦笑いを浮かべて言った。
「確かに、それが一番かもしれませんが……そうもいかないようです」
リーフは突然前方を睨み、腰を浮かせた。寄りかかっていた剣を腰に挿し、臨戦態勢を整える。
さっきまでの人間味の薄い様子とは打って変わって、鉱石のような澄んだ瞳にぎらりと闘争の炎が宿った。鋭い視線は馬車が進む先へと向けられていた。
ただならぬ様子に、商人もつられて遠くへと目を凝らす。
特に不穏な影は見えなかった。寧ろ開けていて明るく、見通しがよかった――不自然なほどに。
「まさか、この辺りまで迫ってきているとは……」
遅れて異変に気がついた商人の顔が険しくなった。
出掛けに確認した地図上ではまだ深い森は続いている筈なのだ。それが途切れているということは、異常事態に相違なかった。
「抜ける瞬間にとばします。揺れるのでご注意を」
「分かりました。リン、しっかり掴まれ!」
「そっちこそ振り落とされんじゃないわよ」
リーフは膝立ちで御者台に座り直し、幌の枠を掴んだ。リンも慌てて馬車にしがみついた。
馬車はどんどん開けた場所に近づいていった。森の出口近辺とは思えない程まだ道は険しかったが、商人は手綱を勢いよく振るった。
「ハイヤッ!」
掛け声をしたが早いか、それまでとろとろと歩くことを強いられていた二頭の六足馬は喜び勇んで全力で駆け出した。
むき出しの木の根に後輪が引っ掛かり、跳ね、馬車の後部が完全に宙に浮いた。
「うぎゃっ」
馬車が壊れてしまいそうな勢いで地面にぶつかった。馬車に身体を密着させていたリンは衝撃を全身で受け止めて、思わず呻き声を漏らした。口はしっかりと閉じていたので舌を噛むことはなかった。
しかしそんなこととはお構いなしに馬車はぐんぐん加速し、森の中で上げられる限界の速度に達するのと同時に開けた場所へと抜けた。
森を抜けたそこは、荒野だった。
木が一本残らず食い尽され、背の低い草が一面に生えているだけの、痩せこけて何もない荒れた土地が延々と続いていた。
振動を堪えて馬車の後ろから外を見ていたリンの目には、森の外縁の木々が映っていた。
木々は皮を剥がされ、幹を抉られ、葉をられて、無惨な様を晒していた。おそらく、立ち枯れするよりも先に根まで残さず胃袋に収まってしまうだろう。
広大な森を荒野へと変えていく暴食ぶりに、リンは思わず顔をしかめた。
近いうちにこの周辺の地図は描き変えられるだろう。リドバルド王国とインディム王国の境の森ではなく、モンスターの土地である外地の荒野として。
商人たちの裏道であったこの道も、外地となってしまっては放棄されざるを得ない。この使えなくなった道における第一の被害者になってしまったのが自分たちであるという不幸に、リンは前もって心の中で嘆いておいた。
後で嘆くことすらできなくなるかもしれないからだ。
森を食い荒らす犯人は、間もなく一行の背後に姿を現した。
キィーーン、キィーーン
独特の高い鳴き声を上げながら、若木の芽吹きを拒む硬い大地を蹄で蹴り、鹿の群れが馬車に迫ってきた。数は十。
鹿たちはどの個体も馬のように大きく、頭に茨のような角を一対揃えていた。胴は荒野に溶け込むような枯れ草色、口の端にはジャコウジカのような牙が見えた。
この鹿は、オオカイタクジカという中型モンスターである。オオカイタクジカは草本を一切口にせず、立派に育った木のみを餌とする。だが、成体の大きさだと森に入り込むのに角が邪魔なので、群れで削り取るように森を食い尽していく。
完全な草食であるが、非常に気性が荒く、群れに他の動物が近づこうものなら集団で襲いかかる習性がある。その襲撃方法もかなり悲惨で、角で串刺しにして息の根を止めるだけでは止まらず、蹄で骨も肉も分からなくなるまでにぐちゃぐちゃに踏みつぶして大地の肥やしにしてしまう。
その獰猛さは、同じ中型モンスターで肉食のヤツハオオカミに匹敵するとさえ言われ、反撃されても諦めることなく息の根を止めるまでしつこく追いかけくる。
商隊殺しとして有名であり、外地を行く商人の間では『人殺しの鹿』と呼ばれ怖れられている。
もし追いつかれてしまえば、万に一つも命はない。
幸い、六足馬はオオカイタクジカよりも遥かに足が速く、馬車を引いている状況下でも追いつかれない速さで走ることが出来る。
だが、森の中では十分な加速が出来ず、平原でようやく本気を出せる六足馬と、最初から殺す気で襲いかかってくる鹿では、後者の方がまだ速かった。
六足馬は徐々にスピードを上げているが、鹿の群れはそれ以上のペースで追い上げてくる。
追いつかれるのは時間の問題だった。
「迎え撃つぞ、リン!」
このままでは逃げ切れないと悟ったリーフが鋭く叫んだ。
「出番ってわけね!」
リンは馬車の脇に積まれていた木箱を二つ取ると、馬車の最後方で並べた。
続いて自分の鞄のサイドポケットの口を緩めてひっくり返し、中身を片方の木箱の中に全てぶちまける。鞄からじゃらじゃらと大きな銃弾が落下し、一山を築く。銃弾は全て対モンスター用の特別仕様だ。
次に首にひっかけていた、たれつきの帽子と耳当てで顔の側面を覆う。銃身による火傷と発砲音による耳の障害を防ぐ為には、どうしても必要な装備だ。
リンは荷物の上に置いてあった長銃のストラップを掴んで引っ張りよせた。銃は上下二連の中折れ式の大口径で、普通の獣でも一撃で仕留められる代物である。
銃を折るように開いて銃弾をこめ、装填から流れるように構えた。狙いと同時に引き金を引く。
腹に響く銃声と共に、銃弾が迫り来る鹿の胴を抉った。
被弾した鹿は転び、馬車を追う群れの中にあっという間に埋もれた。しかし、転んだ鹿が群れの妨げになることは無く、倒れた仲間を軽々と飛び越えて尚も鹿たちは襲いかかってくる。
銃声にも、倒れた仲間にも目もくれず、鹿の形の化け物は変わらず三人を殺そうとしていた。その異常性を異常と感じるものはこの場にいない。
リンは別の一頭の頭蓋を撃ち抜き、即座に銃を肩に担ぐように反転させる。反転の勢いで機関部を開くと空薬莢が空いた箱へと落ちた。
左手で銃弾を乱暴に、しかし正確に空いた場所へと突っ込み、右手首のスナップで機関部を閉じて装填。再び銃口が二回火を噴き、今度は一頭の鹿が群れから脱落した。
続いての二連撃は虚しくも両方外れ、そのうち一発の弾丸は、鋭く尖った角を中程から折り取ったが、当の本鹿は全く頓着する様子は無かった。
リンが銃を撃っている間も、気性の荒すぎる鹿たちはじわじわと馬車との距離を詰めていた。
このままでは追いつかれ、最初にリンが血祭りに上げられるのは防ぎきれない。普通の娘なら恐怖にくのだろうが、それでもリンは冷静だった。
「リーフ、援護!」
次弾を装填しながらリンは背後に向かって怒鳴る。そして返事を待つ事無く鹿を撃った。
今度の弾丸は二発とも命中し、鹿の群れは半数まで減った。
それでも、血走った目をしたモンスターは馬車を見逃してくれそうもなかった。
「はぁっ!」
気合いのかけ声と共に、馬車の奥から瓶が投げられた。
先頭を駆けていた鹿は飛来物を鬱陶しげに角で薙ぎ払い、瓶を砕いた。瓶の中に詰まっていた粘度の高い油が飛び散り、先頭の鹿だけでなく後方の鹿の身体と角にもまとわりつく。
リンは腰のポーチから弾を取り出し猟銃に装填、油をかぶった鹿を狙って撃った。
弾頭に特殊な火薬だけを詰めた弾は、着弾と同時に微かな炎を作り出した。その瞬間、鹿の背中は燃え上がった。
いきなり火を点けられてパニックを起こした鹿は周囲の鹿に体当たりをし、火のついた油を周りの鹿へと撒き散らす。
銃声に怯む様子を見せない化け物も、火だるまになって藻掻き苦しむ同胞の暴走に追撃を中断せざるを得なかった。
足を緩めた鹿共の一方で、六足馬はようやく加速を終えていた。その差はぐんぐんと開き、今から追いつかれる心配はなくなった。
「やったね」
リンはガッツポーズをとると、背後に振り返った。念のため次の油瓶を持って待機していたリーフが、馬車の前方で腰を低くして立っていた。
「現金な奴……」
さっきまでの不機嫌が嘘のようなリンに、リーフは呆れてぼそりと呟いた。
だが、安心するにはまだ早かった。
リーフは何かに気付いたようで、弾けるように馬車の前方に顔を向け、舌打ちをした。
「今度は前からか」
森の道は途切れてしまっているが、全て無くなった訳ではない。現に、馬車は僅かに残る轍の跡を頼りに森の道であった場所を走っている。
道の跡を辿っていけば、まだ食い荒らされていない森の中に逃げ込める。
ただ、森と荒野の境界はオオカイタクジカが食い荒らしている真っ最中なのだ。別の群れが十中八九襲ってくるだろう。
しかも、次は背を向けて逃げるのではなく、正面から迎え討たなければならないのだ。危険度は先程よりも遥かに高い。
既に森は目の前に見えていた。
リーフが御者台から身を乗り出し、周囲を見回す。予想通り、右手前方から四頭の鹿が迫ってくるのが見えた。
「リン、右手前方、四!」
「了解っ!」
リーフが素早く脇に寄り、荷物を乗り越えて前へとやってきたリンに場所を譲る。
リンは素早く猟銃を構え、まだ遠くに見える鹿に向かって引き金を二回引いた。
距離が開いていることもあって、当たったのは一発のみだった。三頭は依然として馬車の方へと突進してくる。
森の中に逃げられるか、鹿と激突するか、微妙なところだった。
「くそっ」
商人が焦って進路を左に変えようとした。そうすれば鹿から逃げられないこともないだろう。だが、追い立てられるままにモンスターの巣窟である外地を走り続けたとして、生きて帰れるとは思えない。
商人のとろうとした行動は愚か以外の何者でもなかった。
しかし、横から急に伸ばされた手が商人の腕を掴み阻止する。
手を伸ばしたのはリーフだった。
「進路を変えずに突き進んでください」
「しかし――」
商人は死の恐怖の前に躊躇していた。リーフが気の利いたことを一言二言投げかければ腹を括りそうな様子ではあったが、もはやそんな猶予は無い。
リーフは商人の心が固まるのを待たずに、御者台から身を躍らせた。
「ひゃっ!」
「リーフ!?」
余りにも突飛な行動に、商人だけでなく相棒であるリンも驚いて銃弾を装填する手を止めた。
リーフは六足馬にとび乗っていた。振り落とされないように素早く馬具を掴み、激しく揺れる背中に貼り付く。
突然背中に乗られて六足馬は足を乱しかけたが、商人が慌てて手綱を振るとすぐにまた真っ直ぐ走り始めた。
それでも、碌に鞍も鐙も付けていない馬上でリーフは大きく揺さぶられ、今にも落ちてしまいそうだった。いつ取り出したのか分からないが、口にはナイフを咥えていて、歯を食いしばって振動に耐えることもできない。
「何やってんのよ馬鹿っ!」
リンが悲鳴に近い声を上げる。
六足馬は温和であるがれっきとしたモンスターであり、背に人を乗せるようには訓練されていないのだ。リーフはなんとか背に跨がることに成功したが、馬具から片手でも手を離すことは自殺行為である。
だが、リーフは何の躊躇いもなく右手を離した。
リーフの目に恐怖の色は無く、迫り来るオオカイタクジカを真っ直ぐ睨みつけていた。
離した手で口に咥えたナイフを握り、上へと振り上げた。
先頭の鹿は、既に馬車に近寄り過ぎていた。瞬きを二つする間に角でリーフを馬上から叩き落せる位置にいる。故に、その鹿が被害者となった。
リーフが投げつけたナイフはす暇も与えず鹿の顔面に当たり、柔らかい眼球に突き刺さった。
目を潰された鹿はそのあまりの痛みに身を翻し、鳴き声を上げながら馬車の幌を引き裂いてあらぬ方向へと迷走を始めた。
続いてリンが放った二発の弾丸は後続の二頭に惜しくも当たらなかったが、馬車は森の中へと突入し、ようやく窮地を脱した。
森の道は荒れ放題で、馬車以外に人気はない。
雑草が茂っているだけでなく、大きな石が転がっていたり、大きな溝があったり、地面から木の根が突き出ていたりと、平坦な部分は殆どなかった。そのせいで、ゆっくり進んでいるにもかかわらず馬車は常に横に縦にと揺れていた。
車輪が何か大きな障害物に引っ掛かって宙に浮く度、積み荷と乗員の足下が一瞬持ち上がっては落とされた。
それでも厳重に梱包された荷物は無傷だが、人間の内臓を揺さぶられる不快感だけはどうしようもなかった。
座るだけである筈の馬車の乗員から、体力を奪おうという悪意すら感じる道であった。
「いつまでこんな道が続くのよ」
馬車の後方から自然の悪意に耐えかねて乗員が身を乗り出した。
合わせてひょっこりと地面に頭の影が落ちた。
荒れた道に落ちる影には人らしからぬ耳が頭頂付近から生えていた。しかし、それは異形でもなんでもなく、帽子についた装飾だった。
獣の耳を模した帽子をかぶっていたのは、まだ年若い女性――少女と言ってもいいような風貌だ。
少女は黒っぽい革の上着を着て、下は厚手の乗馬ズボンとロングブーツという男のような服装をしていた。しかし、装いは男に寄せても、女性らしくめりはりのついた体型はむしろ際立っていた。
腰には複数のポーチとホルスターをぶら下げ、ホルスターの中には拳銃が収まっていた。
帽子の下からはこの辺りでは珍しい豊かな真っ黒の長髪が零れていて、黒い瞳と合わせて顔立ちはとても魅力的だった。
固定された木箱で足の踏み場も無い荷台の中で、少女は自分のため特別に空けられた狭い空間に、自前の荷物と一緒くたになって押し込められていた。
少女は振り落とされないよう幌を掴み、首を伸ばして外を見回した。
頭上には高木の枝が広がり、昼だというのに薄暗い。道の脇には草や低木が自生し、視界を遮り見通しが利かない。緑の深さからして、まだまだ森は続くようだ。
此処はリドバルド王国の西の果て、外地との緩衝地域とインディム王国との国境の両方にぶつかる、所属があやふやな森である。
馬車の行く先はインディム王国の貿易拠点で、少女は位置関係をよく分かっていないが、まだ随分と先にあった。
「リン、不用意に動くな。落ちても拾わないよ」
御者台から容赦の無い叱責が少女に向かってとんだ。
少女は声がした方をちらりと見て、溜め息をつくと身体を馬車の中に引っ込めた。少女は座り直して馬車の枠にもたれ掛かった。
御者台には二人の人間が座っていた。一人は、手綱を握って二頭の六足馬を前に進ませている商人。この馬車の持ち主である。
もう一人は剣を携えた用心棒だった。剣士は脇に立てかけた剣に寄りかかったまま、身じろぎ一つしていない。
声を発したのは、剣士の方だった。
剣士も少女と同じくらいの若者に見えた。
剣士は明らかに丈の合わないぶかぶかの黒い外套を着ていて、手には頑丈そうな革の手袋をはめていた。外套の袖がかなり余るのか、折り返してピンで留めている。逆に、ズボンは丈が短すぎて裾をブーツの中に引き込めず、だらしなくはためかせていた。
金のない傭兵が有り合わせの装備を身に纏ったような剣士の格好は、普通なら失笑ものなのだろうが、剣士の顔立ちがその不格好さを帳消しにしていた。
乾いた泥のような色の茶髪を襟足を残して短く切り揃え、新緑色の橄欖石に似た目は更に薄い色の睫毛で縁取られている。肌はさすらいの身の上とは思えない程白く、整った顔立ちと合わせて陶器の人形のような美しさがあった。
たったそれだけで、ならずもののような格好が、絵物語の吟遊詩人のように映えてしまうから驚きだ。
しかし、纏う雰囲気も人形のようにどこか生彩に欠けていた。美貌とは裏腹に人を引き付けるような魅力を感じない、何かが決定的に欠落してしまった空虚な目をしていた。
ある者は気味悪がって警戒心を抱くだろうし、またある者ならば、その目に底知れないものを感じてより一層気を引き締めるだろう。
それが、少女の相棒の剣士だった。
「時々動かないとお尻が痛くてやってられないわよ。リーフは全然痛くないの?」
少女――リンは腰を浮かせて剣士に言い返した。
リンが座っている場所には藁を編んだ敷物が敷かれていて、馬車から伝わってくる振動を軽減できるようになっていた。
それでも長い悪路の前では焼け石に水で、長時間座っていると尻から腰にかけてかなり堪えた。
今も、馬車から身を乗り出すことはやめたものの、リンは幌の枠に寄りかかって尻を床につけないようにしている。
「大した事はないと思うのだけれど。君はそんなに軟弱なのかい」
表情筋を少しも動かすことなく剣士――リーフが応えた。リンの方に振り返らずに言ったが、声の調子だけで余裕たっぷりであることは伺えた。
御者台にも同じ敷物が敷いてあり、剣士はその上に座っていた。剣士は馬車が出発してからずっと座ったままだったが、特に苦痛に思っていないようだった。
「誰かさんみたいに鋼でできてるわけじゃないからねーだ」
「キミのはただの贅肉だろう。むしろ貧相なボクのより衝撃を吸収しそうに思えるのだけどな」
リンの嫌みに対してリーフは即座に切り返した。リンの顔が一瞬で真っ赤になったが、前を向いて座っているリーフには見えていない。
「……うるさい」
リンはむくれると敷物の上にぺたんと座った。
その様を横目で見て、馬の手綱をさばいている商人が軽く笑った。
商人はゆったりとした旅装束にマントという格好で、年は四十近くに見えた。丁度自分の子供と同じくらいの若者同士の痴話喧嘩が微笑ましく思えたのか、特に邪見にする様子もなかった。
「お二人共、仲が良いんですねぇ。組んで長いんですか」
「そんなに長くはありませんよ。お見苦しいところをお目にかけて失礼しました」
リーフが静かに言った。
リンとリーフは商人のただの同行者ではなく、雇われた護衛である。
二人は外見からしてかなりの若手だったが、実力主義の界隈では珍しさ以上のものにはならない。確かな力さえあれば、誰も年齢など気にしなかった。
その腕前は商人も確認済みであり、安心して二人を雇っていた。
具体的には、リンが商人に絡んできたごろつきの首根っこを掴んで放り投げていた。背丈は然程変わらないとはいえ、自分よりも体格のよい男をあしらってしまった。リーフもまた、ごろつきの仲間を瞬時に組み伏せて制圧していた。
少なくとも、対人戦において二人は申し分ない実力があった。
「できれば、このまま平穏に辿り着けばよいのですが」
商人は常に落ち着き払ったリーフに感心しながらも、苦笑いを浮かべて言った。
「確かに、それが一番かもしれませんが……そうもいかないようです」
リーフは突然前方を睨み、腰を浮かせた。寄りかかっていた剣を腰に挿し、臨戦態勢を整える。
さっきまでの人間味の薄い様子とは打って変わって、鉱石のような澄んだ瞳にぎらりと闘争の炎が宿った。鋭い視線は馬車が進む先へと向けられていた。
ただならぬ様子に、商人もつられて遠くへと目を凝らす。
特に不穏な影は見えなかった。寧ろ開けていて明るく、見通しがよかった――不自然なほどに。
「まさか、この辺りまで迫ってきているとは……」
遅れて異変に気がついた商人の顔が険しくなった。
出掛けに確認した地図上ではまだ深い森は続いている筈なのだ。それが途切れているということは、異常事態に相違なかった。
「抜ける瞬間にとばします。揺れるのでご注意を」
「分かりました。リン、しっかり掴まれ!」
「そっちこそ振り落とされんじゃないわよ」
リーフは膝立ちで御者台に座り直し、幌の枠を掴んだ。リンも慌てて馬車にしがみついた。
馬車はどんどん開けた場所に近づいていった。森の出口近辺とは思えない程まだ道は険しかったが、商人は手綱を勢いよく振るった。
「ハイヤッ!」
掛け声をしたが早いか、それまでとろとろと歩くことを強いられていた二頭の六足馬は喜び勇んで全力で駆け出した。
むき出しの木の根に後輪が引っ掛かり、跳ね、馬車の後部が完全に宙に浮いた。
「うぎゃっ」
馬車が壊れてしまいそうな勢いで地面にぶつかった。馬車に身体を密着させていたリンは衝撃を全身で受け止めて、思わず呻き声を漏らした。口はしっかりと閉じていたので舌を噛むことはなかった。
しかしそんなこととはお構いなしに馬車はぐんぐん加速し、森の中で上げられる限界の速度に達するのと同時に開けた場所へと抜けた。
森を抜けたそこは、荒野だった。
木が一本残らず食い尽され、背の低い草が一面に生えているだけの、痩せこけて何もない荒れた土地が延々と続いていた。
振動を堪えて馬車の後ろから外を見ていたリンの目には、森の外縁の木々が映っていた。
木々は皮を剥がされ、幹を抉られ、葉をられて、無惨な様を晒していた。おそらく、立ち枯れするよりも先に根まで残さず胃袋に収まってしまうだろう。
広大な森を荒野へと変えていく暴食ぶりに、リンは思わず顔をしかめた。
近いうちにこの周辺の地図は描き変えられるだろう。リドバルド王国とインディム王国の境の森ではなく、モンスターの土地である外地の荒野として。
商人たちの裏道であったこの道も、外地となってしまっては放棄されざるを得ない。この使えなくなった道における第一の被害者になってしまったのが自分たちであるという不幸に、リンは前もって心の中で嘆いておいた。
後で嘆くことすらできなくなるかもしれないからだ。
森を食い荒らす犯人は、間もなく一行の背後に姿を現した。
キィーーン、キィーーン
独特の高い鳴き声を上げながら、若木の芽吹きを拒む硬い大地を蹄で蹴り、鹿の群れが馬車に迫ってきた。数は十。
鹿たちはどの個体も馬のように大きく、頭に茨のような角を一対揃えていた。胴は荒野に溶け込むような枯れ草色、口の端にはジャコウジカのような牙が見えた。
この鹿は、オオカイタクジカという中型モンスターである。オオカイタクジカは草本を一切口にせず、立派に育った木のみを餌とする。だが、成体の大きさだと森に入り込むのに角が邪魔なので、群れで削り取るように森を食い尽していく。
完全な草食であるが、非常に気性が荒く、群れに他の動物が近づこうものなら集団で襲いかかる習性がある。その襲撃方法もかなり悲惨で、角で串刺しにして息の根を止めるだけでは止まらず、蹄で骨も肉も分からなくなるまでにぐちゃぐちゃに踏みつぶして大地の肥やしにしてしまう。
その獰猛さは、同じ中型モンスターで肉食のヤツハオオカミに匹敵するとさえ言われ、反撃されても諦めることなく息の根を止めるまでしつこく追いかけくる。
商隊殺しとして有名であり、外地を行く商人の間では『人殺しの鹿』と呼ばれ怖れられている。
もし追いつかれてしまえば、万に一つも命はない。
幸い、六足馬はオオカイタクジカよりも遥かに足が速く、馬車を引いている状況下でも追いつかれない速さで走ることが出来る。
だが、森の中では十分な加速が出来ず、平原でようやく本気を出せる六足馬と、最初から殺す気で襲いかかってくる鹿では、後者の方がまだ速かった。
六足馬は徐々にスピードを上げているが、鹿の群れはそれ以上のペースで追い上げてくる。
追いつかれるのは時間の問題だった。
「迎え撃つぞ、リン!」
このままでは逃げ切れないと悟ったリーフが鋭く叫んだ。
「出番ってわけね!」
リンは馬車の脇に積まれていた木箱を二つ取ると、馬車の最後方で並べた。
続いて自分の鞄のサイドポケットの口を緩めてひっくり返し、中身を片方の木箱の中に全てぶちまける。鞄からじゃらじゃらと大きな銃弾が落下し、一山を築く。銃弾は全て対モンスター用の特別仕様だ。
次に首にひっかけていた、たれつきの帽子と耳当てで顔の側面を覆う。銃身による火傷と発砲音による耳の障害を防ぐ為には、どうしても必要な装備だ。
リンは荷物の上に置いてあった長銃のストラップを掴んで引っ張りよせた。銃は上下二連の中折れ式の大口径で、普通の獣でも一撃で仕留められる代物である。
銃を折るように開いて銃弾をこめ、装填から流れるように構えた。狙いと同時に引き金を引く。
腹に響く銃声と共に、銃弾が迫り来る鹿の胴を抉った。
被弾した鹿は転び、馬車を追う群れの中にあっという間に埋もれた。しかし、転んだ鹿が群れの妨げになることは無く、倒れた仲間を軽々と飛び越えて尚も鹿たちは襲いかかってくる。
銃声にも、倒れた仲間にも目もくれず、鹿の形の化け物は変わらず三人を殺そうとしていた。その異常性を異常と感じるものはこの場にいない。
リンは別の一頭の頭蓋を撃ち抜き、即座に銃を肩に担ぐように反転させる。反転の勢いで機関部を開くと空薬莢が空いた箱へと落ちた。
左手で銃弾を乱暴に、しかし正確に空いた場所へと突っ込み、右手首のスナップで機関部を閉じて装填。再び銃口が二回火を噴き、今度は一頭の鹿が群れから脱落した。
続いての二連撃は虚しくも両方外れ、そのうち一発の弾丸は、鋭く尖った角を中程から折り取ったが、当の本鹿は全く頓着する様子は無かった。
リンが銃を撃っている間も、気性の荒すぎる鹿たちはじわじわと馬車との距離を詰めていた。
このままでは追いつかれ、最初にリンが血祭りに上げられるのは防ぎきれない。普通の娘なら恐怖にくのだろうが、それでもリンは冷静だった。
「リーフ、援護!」
次弾を装填しながらリンは背後に向かって怒鳴る。そして返事を待つ事無く鹿を撃った。
今度の弾丸は二発とも命中し、鹿の群れは半数まで減った。
それでも、血走った目をしたモンスターは馬車を見逃してくれそうもなかった。
「はぁっ!」
気合いのかけ声と共に、馬車の奥から瓶が投げられた。
先頭を駆けていた鹿は飛来物を鬱陶しげに角で薙ぎ払い、瓶を砕いた。瓶の中に詰まっていた粘度の高い油が飛び散り、先頭の鹿だけでなく後方の鹿の身体と角にもまとわりつく。
リンは腰のポーチから弾を取り出し猟銃に装填、油をかぶった鹿を狙って撃った。
弾頭に特殊な火薬だけを詰めた弾は、着弾と同時に微かな炎を作り出した。その瞬間、鹿の背中は燃え上がった。
いきなり火を点けられてパニックを起こした鹿は周囲の鹿に体当たりをし、火のついた油を周りの鹿へと撒き散らす。
銃声に怯む様子を見せない化け物も、火だるまになって藻掻き苦しむ同胞の暴走に追撃を中断せざるを得なかった。
足を緩めた鹿共の一方で、六足馬はようやく加速を終えていた。その差はぐんぐんと開き、今から追いつかれる心配はなくなった。
「やったね」
リンはガッツポーズをとると、背後に振り返った。念のため次の油瓶を持って待機していたリーフが、馬車の前方で腰を低くして立っていた。
「現金な奴……」
さっきまでの不機嫌が嘘のようなリンに、リーフは呆れてぼそりと呟いた。
だが、安心するにはまだ早かった。
リーフは何かに気付いたようで、弾けるように馬車の前方に顔を向け、舌打ちをした。
「今度は前からか」
森の道は途切れてしまっているが、全て無くなった訳ではない。現に、馬車は僅かに残る轍の跡を頼りに森の道であった場所を走っている。
道の跡を辿っていけば、まだ食い荒らされていない森の中に逃げ込める。
ただ、森と荒野の境界はオオカイタクジカが食い荒らしている真っ最中なのだ。別の群れが十中八九襲ってくるだろう。
しかも、次は背を向けて逃げるのではなく、正面から迎え討たなければならないのだ。危険度は先程よりも遥かに高い。
既に森は目の前に見えていた。
リーフが御者台から身を乗り出し、周囲を見回す。予想通り、右手前方から四頭の鹿が迫ってくるのが見えた。
「リン、右手前方、四!」
「了解っ!」
リーフが素早く脇に寄り、荷物を乗り越えて前へとやってきたリンに場所を譲る。
リンは素早く猟銃を構え、まだ遠くに見える鹿に向かって引き金を二回引いた。
距離が開いていることもあって、当たったのは一発のみだった。三頭は依然として馬車の方へと突進してくる。
森の中に逃げられるか、鹿と激突するか、微妙なところだった。
「くそっ」
商人が焦って進路を左に変えようとした。そうすれば鹿から逃げられないこともないだろう。だが、追い立てられるままにモンスターの巣窟である外地を走り続けたとして、生きて帰れるとは思えない。
商人のとろうとした行動は愚か以外の何者でもなかった。
しかし、横から急に伸ばされた手が商人の腕を掴み阻止する。
手を伸ばしたのはリーフだった。
「進路を変えずに突き進んでください」
「しかし――」
商人は死の恐怖の前に躊躇していた。リーフが気の利いたことを一言二言投げかければ腹を括りそうな様子ではあったが、もはやそんな猶予は無い。
リーフは商人の心が固まるのを待たずに、御者台から身を躍らせた。
「ひゃっ!」
「リーフ!?」
余りにも突飛な行動に、商人だけでなく相棒であるリンも驚いて銃弾を装填する手を止めた。
リーフは六足馬にとび乗っていた。振り落とされないように素早く馬具を掴み、激しく揺れる背中に貼り付く。
突然背中に乗られて六足馬は足を乱しかけたが、商人が慌てて手綱を振るとすぐにまた真っ直ぐ走り始めた。
それでも、碌に鞍も鐙も付けていない馬上でリーフは大きく揺さぶられ、今にも落ちてしまいそうだった。いつ取り出したのか分からないが、口にはナイフを咥えていて、歯を食いしばって振動に耐えることもできない。
「何やってんのよ馬鹿っ!」
リンが悲鳴に近い声を上げる。
六足馬は温和であるがれっきとしたモンスターであり、背に人を乗せるようには訓練されていないのだ。リーフはなんとか背に跨がることに成功したが、馬具から片手でも手を離すことは自殺行為である。
だが、リーフは何の躊躇いもなく右手を離した。
リーフの目に恐怖の色は無く、迫り来るオオカイタクジカを真っ直ぐ睨みつけていた。
離した手で口に咥えたナイフを握り、上へと振り上げた。
先頭の鹿は、既に馬車に近寄り過ぎていた。瞬きを二つする間に角でリーフを馬上から叩き落せる位置にいる。故に、その鹿が被害者となった。
リーフが投げつけたナイフはす暇も与えず鹿の顔面に当たり、柔らかい眼球に突き刺さった。
目を潰された鹿はそのあまりの痛みに身を翻し、鳴き声を上げながら馬車の幌を引き裂いてあらぬ方向へと迷走を始めた。
続いてリンが放った二発の弾丸は後続の二頭に惜しくも当たらなかったが、馬車は森の中へと突入し、ようやく窮地を脱した。